《じようみん》善《よ》くこの神を拝するときは死後生を波羅葦増雲の楽園に享《う》く。然るに、耳目あれども此神を知らず、猥《みだ》りに神徳を害《そこな》ふものは、即ちいんへるの[#「いんへるの」に傍点]の苦淵に沈む。抑《そもそ》も波羅葦増の国と申すは、四時花咲き、鳥歌ひ、果実|季《とき》なく実り、生あれども死なく、明あれども暗なく、悔なく、迷なく、苦なく、禍なく、白象鰐魚《びやくざうがくぎよ》も人に戯れ、河水甘露の味を宿して、白檀蘆薈《びやくだんろくわい》のかをり園に満ちたり。失《う》せにしものは此《ここ》に見出《みだ》され、求むるものは此《ここ》に備はり、家|兵燹《へいせん》に焼かるる憂なく、愛する夫《つま》を戦場に死せしめず、和楽の和雅音《わげおん》大空に棚引いたり。如何に人々、今こそ波羅葦増雲近づけり。時に遅るな、祈を上げよ。おおらつしよ[#「おおらつしよ」に傍点]、おおらつしよ[#「おおらつしよ」に傍点]。さんたまりや[#「さんたまりや」に傍点]。死後|生天《しやうてん》波羅葦増雲善主麿。
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人々或は之に和す。門内には法悦信楽《ほふえつしんげう》の妙音楽《めうおんがく》(中世の宗教楽)。所化乗円提灯を翳して伊留満に迫る。
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乗円 伊留満あんとにゆす[#「あんとにゆす」に傍点]と申すは其方《そなた》か。
伊留満喜三郎 如何にも伊留満あんとにゆす[#「あんとにゆす」に傍点]は此方《このはう》ぢや。
乗円 咄、此|老狐《らうこ》、猥《みだ》りに愚民を誑《たぶ》らかし居るな。
伊留満喜三郎 何とて人を誑らかさうや。
乗円 然らば借問《しやもん》す。でいゆす[#「でいゆす」に傍点]天地を造りしとは真か。
伊留満喜三郎 説くにや及ぶ。
乗円 さらば其でいゆす[#「でいゆす」に傍点]をば誰が造りしぞ。
伊留満喜三郎 でいゆす[#「でいゆす」に傍点]こそは天地の唯一神《ゆゐいつしん》。誰も造りしものはおぢやらぬ。
乗円 は、は、でいゆす[#「でいゆす」に傍点]を造りしものが無うて、でいゆす[#「でいゆす」に傍点]能《よ》く天地万象を造りしとな。然らばでいゆす[#「でいゆす」に傍点]は即ち五塵《ごぢん》の塊《くわい》、五蘊《ごうん》の泉、憎愛簡択《ぞうあいかんたく》の源とこそ見ゆれ。
伊留満喜三郎 然らば問はむ。如何なるか是れ仏法。
乗円 即心即仏《そくしんそくぶつ》。
伊留満喜三郎 如何なるか是れ即心即仏。
乗円 即心即仏。
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伊留満忽ち隠し持ちたる短刀を抜いて、乗円が胸に閃かす。
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伊留満喜三郎 如何なるか是れ仏《ぶつ》。
乗円 (平然として)法性は之れ無知亦無得《むちやくむとく》、無色亦無受相行識《むしきやくむじゆさうぎやうしき》。
うかれ男 (つと進み伊留満の手を押へて)宗論に刃物三昧は卑怯なるぞ。
伊留満喜三郎 (うかれ男に引かれて二足三足、後へ退《すさ》りながら)無知亦無得とは珍らしや。本来空ならばなどて天地万象が生ぜむや。
乗円 諸法空相、不生不滅《ふしやうふめつ》、不垢不浄《ふくふじやう》、不増不減。
伊留満喜三郎 何と諸法が空相とや。烏滸《をこ》がましき似非経文《えせきやうもん》よな。本来諸法が空相なら、何ぞ空《くう》を空ずるの相あらむや。誠や大神でいゆす[#「でいゆす」に傍点]は之れ天地能造の主、人類の起源。抑も天地虚曠晦冥、でいゆす[#「でいゆす」に傍点]光あれと呼べば即ち光あり。人あれといへば即ち人あり。諸人何ぞこの大神を崇《あが》めざるや。何ぞ猥りに神威を疑ひ、大神の怒、天地滅尽、じゆいそぜらる[#「じゆいそぜらる」に傍点]の時来らむを恐れざるや。何ぞてしひりいないる[#「てしひりいないる」に傍点]を取り自ら己が身を打つて懺悔礼拝《ざんげらいはい》せざる。何ぞさんた[#「さんた」に傍点]、くるす[#「くるす」に傍点]を吻《す》ひて、偏《ひとへ》におらつしよ[#「おらつしよ」に傍点]を唱へざる。波羅葦増雲近づけり。祈りを上げよ。おおらつしよ[#「おおらつしよ」に傍点]、おおらつしよ[#「おおらつしよ」に傍点]、さんたまりや[#「さんたまりや」に傍点]。
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伊留満高く金十字架を頭上に捧げ、ひたすらに聖頌を唱ふ。門内の楽曲、厳粛豊麗なる寺院楽律よりやうやう神秘奇峭なる近世的問題楽曲に移る。四下やうやうさわがしくなる。
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第一の人 あれ伴天連《ばてれん》が妖術を始めたぞ。
第二の人 何ぢや妖術ぢやてや。
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舞台やうやく赤くかすみ来
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