之をかばふ。)
乗円 ま、ま、待つて下されい。之は長順の正気では御座りませぬ。必定《ひつぢやう》悪魔|波旬《はじゆん》の仕業《しわざ》。……(忽ち南蛮寺の門に気付きて)あれ、此処は邪法の窟宅《くつたく》、南蛮寺の門前なるよな。さてこそ必定邪法の手練《てれん》……
長順 ……あれ唄が聞こえるわ。いとしい人が呼ぶさうな……
乗円 (憂はしげに)長順、長順。其方はまた迷うたさうな。修行が足りぬぞよ、修行が足りぬぞよ。
長順 乗円、其方もわが心はえ汲《く》むまいな。(心弱く乗円の腕にもたれる。)
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忽ち南蛮寺の前にてけたたましき響す。沙門の一行門前なる群集に近づく。
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老いたる男 (再び大槌もて門扉をうつ。)はて、さて怪《け》しい扉ぢや。え、まだかや。まだかや。うん、や、ほい。南無阿弥陀仏。はら、やいの、おう。南無阿弥陀仏。え、まだかや。まだかや。はら、やいの、おう。南無阿弥陀仏。
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老いたる男、最後の一撃をなさむとする所に、忽ち眩暈《めくるめ》き倒れ、槌は手を離れて地上に落つ。
門内楽声(たとへば独逸国リヒヤルト、ストラウスがツアラツストラの曲の末段の如き)嵐の如く高まる。
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菊枝 (うち驚きて)や。これは。爺《おやぢ》さまいのう。
伊留満喜三郎 (菊枝を遮《さへぎ》り)見やれ、こりや神罰ぢや。南蛮寺の罰ぢや。
菊枝 何と、それは真かいなあ。
伊留満喜三郎 大神でいゆす[#「でいゆす」に傍点]の威力の恐ろしさを、遅かりしな、今覚りしか。素《もと》より不信の極悪人《ごくあくびと》、此儘に打ち捨て置き、風来犬《ふうらいいぬ》にな食す可きなれど、今日は異例の情をもて、聖《さんた》まりや[#「まりや」に傍点]に祈りを上げ蘇生《よみがへ》らして呉れむずらむ。(老いたる男の傍に進み寄り口に呪文を唱ふ。老いたる男目ざむ。)
伊留満喜三郎 何と、老耄《おいぼれ》、正気に帰つたか。
老いたる男 (いぶかしげに四下《あたり》を見廻はす貌)ここは何処《いづこ》ぢや、何処ぢや。
伊留満喜三郎 ここは四条の真ン中ぢや。南蛮寺の門前ぢや。
老いたる男 (驚き逃げ去らむとして)何ぢや。南蛮寺の門前ぢやてや。
伊留満喜三郎 こや、逃げ無いでも可いわ。心を落付けいやい。某誠心を籠めて大神に祈りたれば汝が罪は許されたり。――(衆に向ひ)貴き御堂の門扉を撃ち天主の威霊を汚す罪によりて、思ふだにも恐ろしき彼の暗黒のいんへるの[#「いんへるの」に傍点]、解けば即ち焦熱地獄のその底に落ちゆく可き所なるを、でいゆす[#「でいゆす」に傍点]の御教《みをしへ》この国に入りてより、未だ間《ま》もなき事なれば、無智|盲昧《まうまい》[#「盲昧」はママ]の蒼民《たみくさ》の疑ひ怪しむそれ故に、心にもなき大罪に陥らむを憐み、某《それがし》祈念を凝《こら》したれば彼の罪も許されたのぢや。皆々有り難き御恵の御礼申上げたが可《よ》からうぞ。――さんた[#「さんた」に傍点]、まりや[#「まりや」に傍点]。さんた[#「さんた」に傍点]、まりや[#「まりや」に傍点]。波羅葦増雲善主麿《はらいそうぜんしゆまろ》。
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皆々さんたまりや[#「さんたまりや」に傍点]、じええずす[#「じええずす」に傍点]、まりや[#「まりや」に傍点]などよぶ。
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うかれ男 やあれ、やあれ。そこな痴人《しれびと》、知らぬ為《まね》して聞いてあれば片腹いたい妄言綺語《まうごんきご》。
伊留満喜三郎 何、妄言綺語とな。雑言も程こそあれ、世にも恐ろしき神の威霊の近き験《しるし》を今見ざるか。かかる賤しき油売の姿にわが身を扮《や》つしてあれば、貴き言葉《ことば》も疑はるるなれ――(伊留満喜三郎俄に油売の服装を脱ぎて緑の地に金糸の縁飾をとりたる邪宗門僧侶の職服にかはる。右手に高く金色の十字架像を翳《かざ》す。)今までは包みこそ居《ゐ》れ、何か隠さむ。われこそ真は大神でいゆす[#「でいゆす」に傍点]が僕《しもべ》、伊留満《いるまん》あんとにゆす[#「あんとにゆす」に傍点]でおぢやるぞ。
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人々たじろぐ。或は『じええずす、まりや』などよぶ。
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伊留満喜三郎 それわが神でいゆす[#「でいゆす」に傍点]は天地六合の唯一神、宇宙万象の能造の主、天地空寂のうちに万象を造り、かるが故に日月星宿光を放つて、明歴々として東湧西没の時を違へず、地には千木万草あつて、飛鳥落葉の期を誤たず。百万の烝民
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