早う行て子を捜しておぢやれ。子等は法会《ほふゑ》の唄にな、聞き惚《と》れておぢやるやろ。
千代 ほんまに怪《けし》うはないお寺か。
老いたる男 なかなか、なかなか。
千代 さらばあの中に天狗のやうな人食人《ひとくひびと》がおぢやるといふは、ありやほんまに虚事《そらごと》でおぢやるかいな。
老いたる男 何の、その様《やう》な事がおぢやるものか。諄《くど》い女子ぢや。な。この世の中に天狗、人食人などはおぢやらぬわい。ありや、南蛮の坊主共ぢや。日もはや暮れる。早う行ておぢやれ。(千代門内に入る。)
老いたる男 やいの、知らぬ女子よ。早う目を覚《さま》しや。いやさ、正気に帰りおれと申すにな。やれ、女子よ。(女の背を打つ。)
菊枝 あ、あ、あ、あれ、あれ。まだ大きな蛇体《じやたい》が。蛇体が……
老いたる男 愚な女子ぢや。早う正気に帰られい。な。女子よ。邪心を以て見るが故に、藁を綯《な》うて造りたる縄も蛇体と見えるのぢや。
菊枝 それぢやと云うて……今の蛇体は?……
[#ここから3字下げ]
この間に、南蛮寺の門扉内より音もなく自から閉まる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
老いたる男 は。やれ、やれ。内なる門を鎖す男よ。やよ、男よ。その扉《と》は今|少時《しばし》がほど明けて置かれよ。やよ。少時が程ぢや。(怒りて。)はれ。内に人が入りておぢやるといふにな。(門全く閉さる。内より女の声聞こゆ。)
女の声 あれ、あれ、あれ、あれえ。
老いたる男 (両手もて門の扉を押し試みつつ。)誰ぢや。門番の男よ。扉を開けよといふに。え。開けぬ積りか。何。開けぬ。いや、いや、屹度《きつと》開けぬ積りぢやな。好し、それなら此方《こなた》にもする術があるぞよ。――(菊枝に。)やいの、女子よ。そなたは少時《しばらく》此処に待つておぢやれ。――何、此方にもする術があるぢやまで。――俺《おら》は直《ぢ》きこの附近《あたり》に住まふものぢや。われら家に往《い》て持つて来るものがおぢやるわ。少時《しばし》がほどここに待たれよ。
菊枝 妾《わらは》一人が此処にかえ?
老いたる男 何、一人にてはいやぢやと申すか。
菊枝 さにてもおりないが、……妾は恐やの。
老いたる男 何のこと。何のこと。あれ向ひから男子《おとな》が大勢来るわい。そんならほんの暫《しばし》がほどぢや。(去)
[#ここから3字下げ]
行人二三下手より登場。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
菊枝 まをし、まをし、そこな方々よ。今此処に恐しい事が起り候よ。
第一の人 何ぢや、恐ろしい事とは。
菊枝 あの、南蛮寺が人を拉うておぢやつたのぢや。
第二の人 何。南蛮寺が人を拉つておぢやつたと言やるか。やれ、夫《それ》は真《まこと》か。誓文《せいもん》か。
菊枝 何で妾がこの年齢《とし》して、益《やく》ない嘘をつきませうや。
第一の人 して何処《いづく》の誰が拉はれたのぢや。
菊枝 妾の知辺《しるべ》ぢや。お千代|母子《おやこ》がさらはれておぢやつたのぢや。
第二の人 やあれ、やあれ、恐ろしい事ぢや。むかしまつかう[#「むかしまつかう」に傍点]南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
第一の人 あれ見よ。最早《もはや》空に星が出そめたさうな。
第二の人 急ぎまゐらうよ。(行人行きすぎむとす)
菊枝 まをし、まをし、方々よ。今妾の連《つれ》が来るほどに、いま少時《しばらく》此処に止まり候へ。妾一人にては物おそろしや。こはや。
行人等 我等も急ぎの用事がおぢやるわ。
菊枝 さても無情《つれな》の人々候ぞや。
[#ここから3字下げ]
行人なほも行き去らむとす。忽《たちま》ち下手の方賑はしき唄の声(楽屋にて囃《はやし》)。若きうかれ男、舞妓白萩。つづきて屋号を染めたる提灯を持つ男。燈《ひ》はいまだ点《とぼ》されず。登場。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
うかれ男 (扇子もて膝をうち拍子とりとり、唄。)
[#ここから3字下げ]
鐘さへ鳴れば 去《い》なうとおしやる。ここは仏法東漸の源、初夜後夜の鐘は いつも鳴る。
[#ここから1字下げ]
ははははは。(白萩に)何とて人立《ひとだち》がすることぢや。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
白萩 さればいの、私《わたし》も案じて居たのぢやわいの。
提灯を持ちたる男 (私《ひそ》かに)此処は南蛮寺ぢや。
うかれ男 何ぢや。南蛮寺ぢや。へへ、ははははは。
提灯を持ちたる男 笑ひ事では御座りませぬぞよ、早う参りませう。
うかれ男 南蛮寺なりや恐いことはおりない。
白萩 あの晩《くれ》の鐘は、寺の深い井《ゐ》の底から湧いてくるといふは真かいなあ。
うかれ
前へ 次へ
全11ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 杢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング