まぢや? そんなら起請か、懸《かけ》もするてや、好《よ》し、天も地も照覧あれ、指かけ小かけ、嘘云ふものは手の指腐され、好し、そんなら入《い》つて見よう。嘘ぢややら、指十本腐るぞよ。……(常丸門内に入る。二人の女未だ気付かず。)
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千代 まあ、ほんまに夫れは怪《けし》いことぢや。今年は何やら可厭《いや》な年ぢや。出来秋ぢや、出来秋ぢやと云うて米は不作。
菊枝 加旃《それに》また加茂川の大水《おほみづ》。――妾《わらは》が隣の祖母様《ばばさま》は、きつい朝起きぢやが、この三月《みつき》ヶ程は、毎朝毎朝、一番鶏も啼かぬ間《あひだ》に怪《けし》い鳥の啼声を空に聞くといふし、また人の噂では、先頃《さきごろ》摂津住吉の地震《なゐ》強く、社の松が数多く折れ倒れたといふこと……。
千代 ほんまに気味わろいことぢやのう。あれ、また話で時を費《つぶ》いた。妾は今日は急ぐほどに、之で御免蒙りませう。お前も精々|体《からだ》を大事にしや。命あっての物種ぢやのう。さらばまたの日に会ひませう。
菊枝 それなら祖母様にも宜《よろ》しう云うて下され。
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二人相別る。菊枝は下手より退場。忽《たちま》ち千代けたたましく、
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千代 はれ、まあ、常丸。常丸。……はて、常丸としたことが、やよ、常丸。常丸。――(ふらふらと門に歩み寄り、内を覗ひながら。)はて悪いことを致いた。ここが南蛮寺の門ぢやとは、つひぞ気付かいでおぢやつたが……さてはこの門めが、中に引込んだと見ゆるよ……。
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千代、逡巡《ためら》ひながら二三歩門内に進み入り、『常丸、常丸』と呼ばう。答なし。憂はしげに、再び門外に出づ。
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千代 四辺《あたり》には人も見えぬ。はて奈何したものでおぢやらうな。中に入るのも後《うしろ》めたし……。
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思付きたるさまに、急ぎ内より離れ来り、往来に立ち止まり、下手の方を呼ばう。
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千代 おおい、おおい。先《さき》にゆく菊枝どのいのう。菊枝どのいのう……はれ、聞えぬげな。(躓《つまづ》くが如く、二足三足下手の方に歩みよりて。)おおい、おおい。菊枝殿いのう。(右手を挙げて麾《さしまね》く。)あ、やうやう聞こえたさうな。やれ、うれしや。喃《なう》、喃、菊枝どのいのう。早う、早う、菊枝どのいのう。
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此時老いたる男下手より来りてこの様を怪しむ貌。
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老いたる男 やいの。其方《そなた》はけたたましう何を呼ばうのぢや。(額に手を翳《かざ》して、下手の方を眺めやり、また此方《こなた》を向きて。)何が起つたのぢや。
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千代 われら、われら……われら常丸が拉《さら》はれておぢやつた。
老いたる男 何ぢや。何が拉はれたてや。
千代 われら常丸ぢや。われら小さい男《を》の子ぢや。
老いたる男 はて、さて、今時この都に鷲の鳥はおぢやるまいと思うたが。
千代 いや鷲の鳥ではおぢやらぬ。鷲の鳥ではおぢやらぬ。
老いたる男 鷲の鳥でおぢやらぬなら手長猿かいのう。
千代 いやいやそれでもおぢやらぬ。
老いたる男 さらばお山の女取《めとり》でもおぢやつたかいのう。
千代 人さらひぢや。人さらひぢや。
老いたる男 何。人さらひとは近頃面妖なことぢや。何処《どこ》から来て、何《ど》の方角に隠れて行《い》たかの。
千代 (泣き乍《なが》ら)何処からも来ぬ。何処へも行かぬ。
老いたる男 其方《そなた》は泣いて許《ばか》りおぢやつては、しやほに分らぬわ。
千代 (大声にて。)あの南蛮寺が拉つたのぢや。
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菊枝戻り来る。
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菊枝 何ぢや。何ぢや。何ぢや。
千代 南蛮寺がわれら常丸を拉つておぢやつた。
菊枝 はれ!(気絶す。)
老いたる男 (独白)あれ、あれ、また一つ事が殖えた。女子《をなご》といふものは理が分らいで困るものぢや。――(菊枝に。)やいの、女子よ。南蛮寺が人を拉らふわけはしやほにおぢやらぬ。――(千代に。)俺《おら》はな、この女子を介抱しておぢやるさかいに、其方は早やう行て、寺の内に其方が子を捜して来《き》やれ。何も不思議があるものか。不思議は皆心から湧《わ》くものぢや。疑心暗鬼ぢや。何も恐ろしい事はおぢやらぬさかいに、
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