漁夫に言つた。
「人が一人海から戻つて來ない。」
漁夫は少年の言つたことが理解せられないやうに、怪訝《けげん》な目付をした。「何ね。人がね。」
「沖へ出て戻つて來ない。」
その返事と同時に漁夫が叫んだ。「沖へ出て戻つて來ないね。――そりや大變だ。」
さう漁夫が言つたから少年は喫驚《びつくり》した。そして突然泣き出した。
「誰だね、あんた。」と漁夫が問いた。
「家い來て居る富さんて云ふ友達だ。」
「そりや大變だ。――着物はあるのかね。」
「着物と下駄はあの船の下にある。」
「そりや大變だ。」と漁夫は三度さう云つた。「あんた此所に立てお出でな。わしやあんたつち家《うち》へ行つて皆《みんな》あ呼んでくる。」
漁夫は急いで驅け去つた。少年は濱に立つてゐる。水の上に若しや人の頭らしい黒いものは見えないかと、きよろきよろ海の上を見乍ら立つてゐる。
海は再び靜かになつた。唯|渚《なぎさ》に小さい波が崩れた。
此靜けさは、然し今に大變な事の起る前の時の氣味の惡るい靜けさのやうに見えた。
忽ち一群の人々が濱へ驅けて來た。濱は忽ち大騷ぎとなつた。それでもなほも引きも切らずに、大勢の人々が濱へ
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