。殊に今日釣に出てからは殆ど物を言はないで、唯考へ事ばかりしてゐるやうに見えた。
 姉のおつなを見ると、よくは見ない風をした。
 が富之助は鹿田のこんな風な態度を見て、無意識に或る事を直感してゐる。即ち心情に強い刺戟をうけた野蠻人に對する畏怖の念である。

 富之助が鹿田の住んで居る宿へ行つて見た時には、鹿田はぼんやりとして煙草を飮んでゐた。本もない。荷物も何もない。唯机の上に鏡と化粧道具とがあつた。どうして毎日日を送つてゐるか想像が出來なかつた。
 窓へ腰を掛けると、少し小高くなつた丘から、直ぐ目の前の海が見える。葵《あふひ》の花が薄赤く咲いてゐる。「あの家だ。」と鹿田が指をさして教へた。「東京から女學生が來た家は。」
 姉の友だちのことは姉から其後富之助は聞いた。そして時々姉がその宿へ遊びに行くことを知つてゐる。鹿田の爲めには、もつて來いの状態である。さう富之助が思つた。「もう一刻も猶豫はしてゐられない。」
 夕方歸る時に鹿田のゐる漁家の小さい息子が車に米俵を積んで町へ行くのと一緒になつた。そこで富之助はその子に聞いた。
「お前のとこに來た東京のお客さんは酒を飮むかえ。」
「へい、
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