つた。「今朝僕の下宿の隣の家へ東京から女學生が二人來た。自炊をするのだつて云つて。それが君の姉さんの友達だと見えて、君の姉さんも尋ねて來られた。」
 富之助はこの言葉を聽いて二度ぎつくりとした。ぐづぐづして居られないと思つたからである。然し鹿田が直接富之助の姉に就いて語つたことは是れが最初であつた。また最後であつたかも知れない。
 舟が岸に戻つたときは、もう薄明《はくめい》の時だつた。富之助が舟から色々のものを取り出してゐると、後ろでやさしい聲が聞えた。
「富ちやんかえ、たいそう遲くなつたねえ。」
 見ると姉が隣の子を背負つて岸に立つてゐる。夕方のぼんやりと青ずんだ空氣の中に、其ほのかに白い姿は魔のやうであつた。
「あんまり遲いから迎へに來たの。」
 姉は鹿田に目禮して、富之助にさう云ふのである。
 二人は姉を先にやつて、漁夫の一人に荷を持たせて其後から行つた。
 その時鹿田は一言《ひとこと》も物を言はなかつた。
 一體鹿田が一日一日氣むづかしくなつて行くのは富之助にも分つた。そして富之助に對する態度も夏休前とは全く異つて、異常に鄭重《ていちよう》で、少しも馴れ馴れしい所を示さなかつた
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