前んとこに住む。それがいやならお前のお父さんに皆云つてしまふぜ。お前が己《おれ》の稚子《ちご》だつて。お前はおれに連れられて吉原を見物に行つたつて事まで……
「今日はどうしても斷行する。」さう富之助は考へた。「唯姉に皆言つてしまふことは止《よ》さう、あの男は惡い男だから要心しなさいつてことだけは言はう。そしてわたしは内に居るのはいやだから旅行すると云つて出て行かう。誰も知らない遠國の山の中へ入つて行つて、そこから一伍一什《いちぶしじふ》を認《したた》めて、姉や父母に詫を言はう。そして誰も知らないやうにこの世界から別れてゆかう……」
かう云ふ空想は悲哀であるよりも慰藉であつた。七時が鳴るまで富之助はそんな事を考へ續けた。枕の布が涙で濕つてゐた。
朝のうちに富之助は客を送つて海岸傳ひに半里ほどの小村落へ行つた。老人が隱居に建てて、自分は住まぬうちに死んで、其後は避暑の客に貸せる漁夫の家の離座敷である。
昨日と違つて日は赫々《かくかく》と海、波、岸の草原を照射した。
客を送つて歸つて來て、富之助は一安心して二階の自分の部屋に寢た。そしてすぐ旅行に立たうといふ今朝の考とは反對に、唯何
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