の岸へ出た。暗い岸ばたにとばんで、二人とも何にも言はない。
そのうち鹿田が口を切つて二言三言話し出したが、全く尋常の話である。何か二人ともに或一事を目の前に見て居ながら、お互にそれには手を觸れまいとしてゐるやうである。
一種の驚怖は始終富之助の胸を徂徠《そらい》した。彼は嘗つてかう二人して居た時に、彼から強く毆打されたことを記憶してゐる。
鹿田が例《いつ》になく丁寧な言葉使をするのが、富之助にはまた非常に氣味が惡かつた。
九時頃二人が家に歸ると父が歸つて居た。冷くした麥湯に砂糖を入れて飮みながら、父も母も一緒になつて縁側へ出て話をした。眞夏であるのに既に蟲の聲が聞えて、そことなき寂しさがあつた。
富之助の父が言ふ。「伜もどうか君等の指導で一人前の男にしたいと思ふ。馬鹿ではないが文學みたやうな事が好きで、數學の方が得意でない。もう文學は一切やらせないことにしたが、君もまあさう云ふ方向でこれを薫陶してくれ給へ。」
「もう二三日のうちに自分は親たちから離れて死んでしまふ。自分のそんな心は少しも知らないで、親達は自分の行先のことを心配してゐる。」さう富之助が思ふと、危くも目へ涙が湧き
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