い。
暫く何にも考へないで居ると、客は何となく非常に心持のよい感じから突然襲はれた。それは聲であつた。遠い方で「功さん」と呼んだのが二度目の聲ではつきり分つたのである。今まで彼は「功さん」といふやうに本名を呼ばれたことはない。それ故自分に尤も親しい名でゐながら彼は聞き損《そ》くなつたのである。
やがて五十ばかりの柔和な老母が庭に現はれた。それが富之助の母親であるといふことは、客は直ぐ推量した。
老女は別に角ばつた挨拶もしないで「ねえ功さん、富之助は何處へ行つたのでせう。今朝からあんなにあなたをお待ち申して居ましたのに。きつとあなたが今日は來ないとでも思つたのでせうかね。いつも夕方なんぞに外へ出ることは無いのですが。――今使を見せにやりましたから、もうすぐ歸つて來ませう。それまでに、風呂が涌きましたから一つおはいりなさい。」と言ふのであつた。
客は立ち上つた。そして庭下駄をはいて老女の後について行つた。心の中には一種感謝の情に似る感情が起つて來た。
富之助は其間に漁夫町に出たが、他に時を銷《け》す處がないから、釣道具を賣る店に寄つた。そこの息子は彼の小學校友達である。それが久
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