けで一種不安の心持を起して、中身を見る氣にならなかつた。それでも封を切つて内の文句にざつと目を通すといよいよ不安になつた。細かに熟讀する勇氣が出ない。唯彼が來るといふことを知つただけで胸が一杯になつた。
 其後程經て八月三日に御地に行くから案内を頼むといふ葉書が來た。
 彼の不安は何故であるか……と云ふことに對しては、彼は自ら答へることを恐れた。成るべく其事をば考へまいとする。それで完全でなく、切れぎれに記憶像が頭に浮ぶのである。
 或時は彼は鹿田の袴を持たされて、對外ベエスボオルの日に、横濱の公園側の道を歩いて居た。その時鹿田は酒で顏を赤くしてだらしのない風で街道を漫歩し、美少年たる富之助を頤使《いし》するといふことを自慢にしてゐるらしく見えた……
 また或時は……隅田川のボオトレエスの日……彼は鹿田の友達に顏をひどく打たれて鼻血を出したことがある……
 思ひ出すのを恐れるやうな記憶がその他にいくらもあつた。そして聯想が彼の不可解の禁苑としてゐる記憶圈内に入つて行くと、恰も鋸の目立を聞いたやうに、或はまた齲齒《むしば》へ針を當てたやうな激しい不快感を起して、それから先へ進むのをひとり
前へ 次へ
全49ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 杢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング