た。その答案と云ふのが而も妙なもので、畫である。そこで大變に心配になり出して、杉の根もとに腰を懸けて、さてどうしようと思案をしたが、此處でぐづぐづとかうして居ても仕方がない、いやではあるが、之から戻つて行つて、その局のものに願つて追試驗をして貰はうといふ氣が起つた。せかせかと息を切つて半里ばかり驅《かけ》つて來ると、村役場がそこにあつた。
臺所の方へそつと入つて行くと小使が一人居て何と云つても返事をしない。もう向ふが感付いたのだといふ※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、231中−2]り氣を出して、それから手足が麻痺したやうに感じられ、表口の受付へ行く氣になれない。
それでもまた氣を取り直ほして役場の玄關へ行くと、折惡しくも野澤先生といふ、小學校の時の一番こはい先生が居た。先生はわけを話すと、聽いて居られないやうな皮肉を言つた。するとこの時忽ち他のも一つの事が彼の頭に浮んで來た。野澤先生は自分の極々《ごくごく》祕密にして居たことを知つて居るのだといふ考である。
彼はもう仕方がないと斷念して、急いで玄關から出て行つた。するとそこが忽ち細長い部屋になつた。お寺の坊の臺所のやうな所である。然しそれはまた學校の小使部屋であつて、東京の中學校の片盲の小使が居た。卓の上には堆《うづたか》く積んだ紙があつて、それは皆試驗の答案である。その中には極めて細かく、桝形に書いた數字がある。それは算術の答案である。ああ、他の人はみんなこんなに正確な答案を書いて居ると思つていやな氣がした。同じやうな答案紙に繪の書いたのがある。石膏像を寫生したやうなものである。ああ、他の人はみんなこんなに上手に畫いてゐると思つてまたいやな氣がした。
景は更に急轉した。何處だか分らないが、そこに役場の門前に在るやうな掲示板があつて、それに人の名が書いてある。その中に中澤彌三郎といふ名があつた。ああ、あの人は及第だと思つた。すると中澤君が來て如何にも親しげに笑ひかけた。その笑ひ顏を見るといやな氣がした。その他にもいろいろの名があつたが、自分の名はあつたかどうだか分らない。ところがそのうち一つの殊に印象の深い名があつた。それは「鹿田功」といふ名である。彼ははつとした。鹿田がここに居るに相違ないといふ氣がしたからである。彼は見付からぬ先に逃げようと思つた。そしてそつと裏口の方へ※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、231下−8]りかけると、其途端に彼は鹿田を發見した。そしてわつと叫んだ。……
「みんなおとつさんに話してしまふぞ」さういふ鹿田の聲が後から聞えた……
「兄さんまだ寢て居るの」とその瞬間に彼はある優しい聲を聽いたのである。
時計が四時を打つた。
少時《しばらく》して彼はやつと心を靜めた。もう試驗は疾《と》くに濟んでゐる。畫の試驗などの滯《とどこほ》つて居るものはない。……さう云ふ風に段々安心して來たが、やがて鹿田といふ名のことに想ひ到ると、それらの安心は凡て空虚の安心であつたといふ事に氣が付いた。
「八重ちやん、今鳴つたのは四時だねえ。」妹が答へた、「ええ、四時よ。兄さんに、毒だからもうお起きなさいつて。」
さう云ふ會話をしながらも彼は起き上らなかつた。實際手足が痺れて居るやうで起き上ることも出來なかつた。身體ぢゆう汗びつしよりになつて居る。呼吸が苦しく感じられる。大熱を病んだあとのやうで、どうしても起き上ることが出來ない。
また少しうとうとする。さうすると息苦しさが一層強くなる。居ても立つても居られない……世界の際《はて》へ來たやうな、名状すべからざる不快の氣分が彼の全官能を襲つた。
忽ち或る朗らかな聲がした。「富之助、お前どうしたの。今日は寒いから、お前、風を引くよ。」
姉のおつなの聲である。おつなは何時ものやうに、粗末な鼠つぽい阿波縮《あはちぢみ》の單衣《ひとへ》を着て、彼の枕元に立つて居た。「素麺《そうめん》が出來たから下へ行つておあがりよ。」
少年は昔讀んだ「雪野清」といふ小説のことを思ひ出した。
姉はまた語を續けた。「お前の友達つて人は本當に今日來るの?……何なら今夜内へ宿《と》めてやつても可いとおつ母さんが言つてお出でだつた。」
富之助はこの言葉を聞いてぎくりとした。そして周章《あわ》てて言つた。「姉さん、そりや内には宿まんない方が可いよ。友達つて云つたつて僕よりずつと級の上の人で、そんなに善くは知らない人だもの。それに僕はあんまり好きでない人だもの。級が上で、善くは知らないのだから……」
善くは知らないのだからといふ言葉には殊に調子を付けて繰り返して言つた。
「だつてせつかく態々《わざわざ》來るのだから……そんなに内へ遠慮なんか、お前、しなくつても可いのよ。おつ母さんがお休みになつて居
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