少年の死
木下杢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)鉤手《かぎのて》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)この日|例《いつ》になく

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   (数字は、底本のページと行数)
(例)やさしき御姉妹[#「やさしき御姉妹」に傍点]
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 八月の曇つた日である。一方に海があつて、それに鉤手《かぎのて》に一連の山があり、そしてその間が平地として、汽車に依つて遠國の蒼渺たる平原と聯絡するやうな、或るやや大きな町の空をば、この日|例《いつ》になく鈍い緑色の空氣が被《おほ》つてゐる。
 大きな河が海に入る處では盛んな怒號が起つた。末廣がりになつた河口までは大河は全く平滑で、殆ど動《どう》とか力とかいふ感じを與へない、鼠|一色《いつしき》の靜止の死物であるやうに見えて居ながら、一旦海の境界線と接觸を持つと忽ち一帶の白浪が逆卷き上り、そして(遠くから見て居ると)それが崩れかけた頃になつて(近くで聽いたならば、さぞ恐しい音響であらうと思はれるほどの)音響が、遠くの雷鳴のやうに響いた。
 然しながらこの自然現象は、毎日毎日同樣に繰り返へされてゐるのだからして、町の住民には今更何等の印象をも與へない。靜かな曇り日に、數千の甍《いらか》が遠く相並んでゐて、その間に往々神社佛閣の更に大きなものが聳え出てゐるのを瞰望してゐると、如何にも平和であるといふ氣が起つて來る。かの荒い海の背景がこの平和の印象を少しも壞さないのは寧ろ不思議である。それといふのも畢竟《ひつきやう》慣れといふことが感激を銷磨《せうま》するからであらう。たとへ宗教心のない人でも、かう云ふ平和の俯瞰景を眺めたら、何かに祈りたいといふ氣を起すに相違ない。
 この平和な都會は然し全く休息して居るのではない。外海《そとうみ》の暴《あら》い怒號の外に、なほ町自身の膊動《はくどう》がある。何かと云ふとそれはかの平地を驅けつて來る汽車である。
 忽ち長大の一物が山の鼻のところへ形を現はす。忽ち警戒の汽笛を鳴らす。傍目《わきめ》もふらずかたことと驅けて來るのを見ると、器械力と云ふよりも一動物の運動といふ感じがするのである。忽ち停車場に達する。笛を鳴らす。停車する。人々が停車場の構内から出る。かういふ活動が往復合せて一日に十四囘あるが、かの大河と海との大爭鬪よりもむしろこの方が活動の印象に富んで居て、そしてこの平和の町に一味の生氣を賦《ふ》して居るのである。
 遠海《とほうみ》も、大河も、町の家並も、汽車も、凡て八月のこの曇つた一日を平和に送つてゐるらしく見えた。
 所が停車場からさう遠くない小高い所に一軒のしもた屋があつた。まだ年の少い一人の男の子が時々その屋根の上に登つてゐた。誰も然しこの少年に特別の注意をするものとてはなかつた。と云ふのは今日朝から始終その少年の行動を注視したものは誰もなかつたからである。もしさうしたならばその人には多少不思議な感じを起したかも知れない。何故となるとこの少年はたつた一度屋根へ登つたのではないからである。午前の十時ごろにも登つた。正午にも登つた。そして二時過ぎにも登つたのである。更に注意深い人はこの時刻が全く偶然的のものではないと云ふことに氣が付く筈であつた。といふのはその時刻こそは、東京からの汽車がこの町の停車場に着く時であつたからである。即ちこの少年はこの町に着く汽車に對して何等かの利害を感じてゐたのである。それが單に遠くから段々と近《ちかづ》いて來る汽車の運動を眺めるだけの興味だつたらうか。それともこの汽車に乘つて、強く少年の興味を引く誰かが來るのであつたらうか。
 然し少年のこの行動は全く誰の注意をも引かなかつた。即ち少年が二階の屋根に登つたのを見た人があつても、之をば全く何等の意義もない惡戲として輕々に看過したからである。もしこの靜かな町を見下してゐる人が之を見つけたとしたら、きつと一種の興味ある點景人物として喜んだに相違ない。
 ところが實際は決してそんなのんきな事ではなかつた。かの少年に取つてはこの二階の屋根に登るといふ、一見滑稽な惡戲が、實に重大な事件であつた。

 少年が屋根へ登る家は小さな川のそばにあつて、黒塀が※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、229下−27]《めぐ》つて居る。建物は古いけれども、何となく鷹揚《おうやう》な間取で、庭も廣い。裏手は極《ごく》疎《まば》らな垣根で小川に接して居る許りであるが、そこには欅《けやき》、樫、櫻、無花果《いちじゆく》などの樹がこんもりと繁つて居り、低い葡萄棚の下が鷄の小屋になつて、始終鷄の聲がしてゐる。
 今言つた二階は大きな銀杏樹《いちやう》と柿の樹との爲めに好く見えないが、
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