少年は二階の欄干を越えて母屋《おもや》の屋根へ出ると、そのままぐるりと表の方へ※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、230上−8]り、そして難なく二階の屋根へ出るやうである。
無花果の下では、近所の子供が二三人集つて七面鳥をからかつて居る。
「そら追つかけるぞ。」と男の子の一人が言つた。
忽ち泣聲が起る。八つばかりの女の子が七面鳥に追ひかけられて逃げ切れずに躓《つまづ》いたあとから、例の七面鳥がその兒の足をつついたのである。
女中が臺所から出た。
尋《つい》で十ばかりになる綺麗な女の子が(家の一番下の娘が)また泣聲に驚いて出て來た。
「まあ、馬鹿、七面鳥。」と呼んだ。そして、ませた口ぶりで子供等に「お前たちは小さい子をからかつてはいけないよ。」と言つた。
女中は倒れた女の子をかばつてやつた。下男が出て來て七面鳥を小屋の中へ追ひやつた。
「葡萄が段々赤るみかけた。」と下男が獨語《ひとりごと》を言つた。
「本當だとも、きつと。」さう家の娘が言つてゐる。
「うそだ。」と男の子の一人が言つた。
で娘は女中に
「ねえ、お作、本當だねえ。今日|午前《ひるまへ》鮭が一匹この川を上《のぼ》つて來たねえ。」
「本當ですともお孃さん。今年は二度目だつてますよ。」
「こんな小さい川に鮭が來ようはない。うそだ。[#底本では「うそだ」のあとの「。」が抜けている]」と男の子が頑項《かたくな》に答へた。
「あら本當よ。それなら誰にでも聞いて御覽。あたいは嘘なんぞ言はないから。」
「それあどうにかして迷つて來たのよ。そしてみんなが大騷をしたけれども、間に合なかつたのだよ。」と女中が説明して居る。
立派な白い髯《ひげ》の生えた老人が、庭さきで、筆に水を含ませて萬年青《おもと》の葉を洗つてゐる。老人が腰を屈《かが》めて、落ち付きはらつてそんなことをしてゐる態《さま》が、遠く庭の緑を拔けてくつきりと見える。
少し肥つた、二十《はたち》ばかりの美しい娘がその傍にゐる。何氣なく老人の仕事を見て居るやうである。それらの光景は、鏡の中の像のやうに、木戸のあなたに、小形にはつきりと見えるのである。
さつきの小娘は其方を眺めてゐたが、急に聲をあげて空の方へ向つて言つた。
「あんちや、危いよ。おぢいちやんに叱られるよ。」
ちやうど二階の屋根に少年が登つたのである。少年はそんな呼聲に少しも注意を拂はぬらしく、下界の一方を眺めてゐる。
この少年の少しく破壞的な行動を除いては、また此小ぢんまりとした家の中にも、曇りの日の柔かな緑の庭と同じやうな平和が漲《みなぎ》つてゐると、誰しも思ふのである。
然し少年の胸には異常の不安があつた。彼はやや青白い美しい顏色に沈鬱の影を見せて、偏《ひと》へに下界の一方を見つめてゐる。
停車場に汽車が着いたところである。
鋭い汽笛が一聲靜かな午後の空氣を振動せしめた。
少時《しばらく》あつて、各種の風俗をした乘客が三々伍々、停車場の構外へ現はれ出た。それらは少年の二階の屋根から一々手に取るやうに見える。
それらの人々を注目するのが、少年の今の最重要任務であるかの如く見えた。時々心をはつとさせながら、彼は一々の人を注意してゐる。
五分經つ……十分經つ……そして少年は緊張した心持から覺め何物をも發見しなかつたといふ安心から、多少氣が緩《ゆる》んだやうに歎息をした。そしてまた始めの沈鬱な顏のままで、默つて二階の屋根から降りて、自分の書齋になつて居る二階の六疊に入つた。
二階からは、高い立木と少し隔つた隣家の屋根との爲めに、近い停車場の構内は見ることは出來ない。少年は二階の自分の室に這入つて一安心した。
今朝からもう三度目である。次の着車時刻まではまだまだ二時間強の間隔がある。それまでは心を動搖させる必要がないけれども、何をしようとしても手に着かない。そこで少年は棚から枕を出して座蒲團の上へごろりとなつた。
Desperately……desperately……
と口癖のやうに呟きながら、頻《しき》りに天井を眺めて居たが、急に立ち上つて、階子段《はしごだん》を下つて行き、今度昇つて來た時には、栗饅頭を一つ手に持ち、一つ口にくはへて來た。菓子を食べてしまつたあとでは、またごろりと横になつた。そしてdesperately……desperately……と呼んで居る。
何時の間にかうとうととし出し、少し口を開き、兩手を胸へ當てたままで眠り始めた。
すると忽ち或る山の中の村落が彼の夢の中へ入つて來たのである。寂しい街道に小さいちよろちよろの流があつて、太い杉の樹が道の中央に立ちはだかつて居る。そこまで彼が歩を運んで來ると、忽ち一事に想到して非常に驚いた。それは彼が夏の試驗に答案を出すのを忘れたと云ふことであつ
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