たつて、姉さんが御飯ぐらゐ世話してあげるから。」
「だつて姉さん、僕よりずつと年の上の人なんだよ。もう二十より上の人なんだから……それに僕アそんなに善く知らないんだから……」
「兎に角お前もう起きて顏をお洗ひ。そしておやつをお食《あが》りよ。」
 姉は下へ降つて行つた。少年はなほ寐たままでいろいろの事を考へた。そして
  Desperately……desperately……
と獨語(ひとりごと)を言つた。
 時計は四時半を過ぎてゐる。次の列車の着する迄にはまだ一時間ばかりの間があつた。
 少年は立ち上つた。その刹那、殆ど口へ出るばかりに、心の中で、かう叫んだ。
「僕は死んであやまる!」

「拜啓暑氣|嚴敷《きびしく》候處貴君は如何に御消光なされ居り候や明媚なる風光と慈愛に富める御兩親またやさしき御姉妹の間に愉快に御暮し居り候事と存候|陳者《のぶれば》小生も一月ばかり御地にて銷夏致度就ては成るべく町外れにて宿屋にあらざる適當なる家御尋ね置|被下間敷哉《くだされまじくや》但自炊にても差支無之候……」
 二週間ばかり前に富之助は鹿田から突然かう云ふ手紙を受取つた。その時は既に封筒の名を見ただけで一種不安の心持を起して、中身を見る氣にならなかつた。それでも封を切つて内の文句にざつと目を通すといよいよ不安になつた。細かに熟讀する勇氣が出ない。唯彼が來るといふことを知つただけで胸が一杯になつた。
 其後程經て八月三日に御地に行くから案内を頼むといふ葉書が來た。
 彼の不安は何故であるか……と云ふことに對しては、彼は自ら答へることを恐れた。成るべく其事をば考へまいとする。それで完全でなく、切れぎれに記憶像が頭に浮ぶのである。
 或時は彼は鹿田の袴を持たされて、對外ベエスボオルの日に、横濱の公園側の道を歩いて居た。その時鹿田は酒で顏を赤くしてだらしのない風で街道を漫歩し、美少年たる富之助を頤使《いし》するといふことを自慢にしてゐるらしく見えた……
 また或時は……隅田川のボオトレエスの日……彼は鹿田の友達に顏をひどく打たれて鼻血を出したことがある……
 思ひ出すのを恐れるやうな記憶がその他にいくらもあつた。そして聯想が彼の不可解の禁苑としてゐる記憶圈内に入つて行くと、恰も鋸の目立を聞いたやうに、或はまた齲齒《むしば》へ針を當てたやうな激しい不快感を起して、それから先へ進むのをひとりでに阻止した。
 その他にまだ朧ろげにも一つの不安がある。是は彼の空想に屬することであつて、自分がそんな空想を抱くといふ事それ自身が彼の自覺には堪ふ可からざる苦痛であつた。――鹿田の手紙の文句の中に「やさしき御姉妹[#「やさしき御姉妹」に傍点]」云々の文字があつた。それが氣になるのである。
 富之助の姉のおつなは今年の三月迄東京の學校に居た。そして鹿田は蔭ながらおつなの事を善く知つて居た。
 おつなは二十一歳で美人であつた、富之助はおつなのことを姉ながら神々《かうがう》しい女だと思つて居た。
 美しい神々しいおつな……獰猛《だうまう》な鹿田……富之助の頭のこの烈しい對照《コントラスト》が更に幾多の不祥な聯想を呼んだ。或ものは鮮明に表象に現はれた。或ものは意識|閾《ゐき》下に壓《お》しつけられて、ただ不安な心持だけになつてゐる。
 夏休み前に鹿田が富之助にじやうだんを云つたことがある。……僕が君に對する愛は弟に對する愛だ。それが僕の不謹愼の爲めに邪道に落ちたのだ。君のシスタアに對する愛はこれこそ本當の神聖なる愛だ……
 ……富之助は今假睡から起き上つたがまたゆくりなくも同じやうなことを考へた。頭がくわつとなつたが、それが治まらないで、輕い頭痛と變つて、蟀谷《こめかみ》が痛んだ。時計が五十分に近《ちかづ》いた。刻々にその刻秒の音が聞えるほどあたりは靜かである。時々七面鳥が物に驚いたかのやうに啼いた。
 突然に富之助は二階の隅の机の上に腕を當てた。ちやうど泣くやうな姿勢をしてその腕に顏を埋めた。
「僕は死んであやまる。」さう小さな聲で言つた。
 少時《しばらく》して富之助が下に降りて來た時には、珍らしくも父が、内の人の居間になつてゐる八疊に居た。姉と妹も居、母も床から起きて來てそこに居た。富之助は父の顏を見ると、何か隱れてゐる事を發見せられはしまいかといふ心を起した。そしてずつと其部屋を通り拔けて、臺所の方へ行つて顏を洗つた。
 白い大きな瀬戸引の金盥に水を入れて、成るべくゆつくりゆつくり顏を洗つた。皆と會ふ時間を一刻でも延ばさうとするのである。さうすると父も或は座を離れるやうなことがあるかも知れないと思つたからである。
 然し富之助が八疊に來た時には父はまだそこに居た。今日はいつになく温和な顏をして居たが、それでも富之助には不安であつた。
 今まで富之助の父に對する不安
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