は試驗の點數を問はれることであつた。死んだ長兄が非常に秀才であつたことが長く父の頭に印象してゐて、富之助はいつもそれと比較せられた。
 父が言つた。「今日はお前の友達が東京から來るさうだが、試驗の事も分るだらう。」
 この語《ことば》は色々な意味で富之助に甚《はなはだ》しい恐怖を與へた。どぎまぎしながら、善くも考へないで富之助が答へた。「友達つて云つても本當の友達ぢやないんです。だつてずつと上の級で、それに年も隨分上ですから……」
 無論父親は決して富之助を苛《いぢ》める爲めに富之助に尋ねたのではなかつた。實際子を思ふ至情からであるのだが、それが富之助には獄吏の笞《しもと》かと思はれるのであつた。
 富之助の心中にはかういふ不安があつても、然し知らない他人がこの一家團欒の景情を見たら、いかにも清い幸福がこの一室を罩《こ》めてゐると思ふに相違なかつたらう、富之助の父はもう職務を廢《や》めて、舊稿の詩文を集めるといつて一室に籠つてゐて、聖者のやうな生活をして居る。またその母親はこれほどやさしい母親はあるまいと思はれるほどにやさしい。二人の姉妹もまた神の如く、また天使のごとく尊くまた愛らしい。
 富之助の心中に「死んであやまる」といふ言葉の彫り付けられてゐることは誰も外から之を讀むことは出來なかつた。
 六時二十五分の終列車が着いた。それと殆ど同時に一列車がこの驛から出發して行つた。段々近づく或は段々|遠《とほざ》かる汽車には、汽船とはまた違つた一種の活動味があつて、敏捷なる動物を想像せしめるのであつた。
 朝から曇つて居た空の一面が破れて、夕日が其半面を現はした。白茶つぽい――砂の多い街道には日の反照がぎらぎらして、明日天氣になつたらさぞ暑いだらうと思はしめた。
 停車場から街道へ出て、それ故、急に蝙蝠《かうもり》傘を擴げる人もあつた。そして白い扇子が同時にぱらぱらと開かれ、大勢の人の胸の邊でひらひらし出した。
 停車場の構内と街道へ續く廣い空地との間には疎《まば》らな黒塗の柵があつて、その根本のところにちよろちよろと青草が出てゐるが、肥料が足りないと見えて元氣がない。正直に街道へ出るより、その柵を超えた方が、極僅かだけれども道が近くなるので、低い柵の一部は破壞せられてそのままになつてゐる。その傍には砂利が山のやうに積んである。
 停車場から出た一群の人々は、それぞれに相別れて自分の行くべき道を歩いて居るが、その中に白い飛白《かすり》を着て帽子を被り、手に蝙蝠傘と、大きい四角な、然し輕るさうな包を持つた二十四五の男は、他の人が眞直ぐに前方を向いて歩いてゐるにも拘らず、不案内さうにあちらこちらを見※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、234上−12]はし、それでも或方向へと街道を大分歩いて來た。
 道が平行に幾本かに分れる處へ來ると、はたと足を停めた。見ると角に小さな印判屋があつて、その店では煙草やちよつとした雜貨を賣つてゐる。わかい男は之を見出すや否や、その店の方へ歩み寄つた。
「ちよつとうかがひます。」うつろな一種の響を持つた聲である。印判屋の亭主が小さい刀の手を休《や》めて顏をあげると、わかい男が尋ねた。「あのこの邊に土屋さんて家がありませうか。」
 主人は冷淡に、然し煩《わづら》はしいといふのでもなく應じた。「土屋何といふのですか。」
「土屋……土屋富之助といふ、東京の中學へ行つてゐる學生の家ですが……何でも停車場からさう遠くはないと聞いてゐましたが。」
「さうですか[#底本では「そうですか」と誤記]。それなら土屋守拙さんといふ學者のお宅でせう。それならこの道を眞直ぐに行くと石垣のある家の角に郵便函がありますが、その四辻の角を左に向くと小さい橋があります。その岸を川下にお下んなさい。直ぐです。黒い塀が※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、234中−4]つて、大きい銀杏樹のある家です。」
「さうですか、有りがたう御座います。」
 そして青年が辭し去つた。……
 かう云ふ青年の動作をまんじりともせず見て居た人がある。それは言ふまでもなく屋上の少年であつた。そして青年が印判屋の角へ來るところまでは突き止めた。隱れんぼをする子供が、見つかりさうになりながら急に逃げ出すといふ刹那の心理を以て、彼は倦《あ》かず此青年の擧動を視察した。
 青年の姿が印判屋の軒下に隱れた時に、彼ははつと心を周章《あわて》させた。さあどうしよう、もう五分とは經たないうちに彼の青年は自分の家の門前に來る。
 ――少年は倏忽《たちまち》屋根から下つた。そして他の人に怪しまれない限り急いで庭へ出て、そこから麻裏草履をはいて河の方へと驅け出して行つた。彼はもはや策が盡きて、どうかして時間の餘裕を作るべく逃げ出したのである。途中
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