の岸へ出た。暗い岸ばたにとばんで、二人とも何にも言はない。
 そのうち鹿田が口を切つて二言三言話し出したが、全く尋常の話である。何か二人ともに或一事を目の前に見て居ながら、お互にそれには手を觸れまいとしてゐるやうである。
 一種の驚怖は始終富之助の胸を徂徠《そらい》した。彼は嘗つてかう二人して居た時に、彼から強く毆打されたことを記憶してゐる。
 鹿田が例《いつ》になく丁寧な言葉使をするのが、富之助にはまた非常に氣味が惡かつた。
 九時頃二人が家に歸ると父が歸つて居た。冷くした麥湯に砂糖を入れて飮みながら、父も母も一緒になつて縁側へ出て話をした。眞夏であるのに既に蟲の聲が聞えて、そことなき寂しさがあつた。
 富之助の父が言ふ。「伜もどうか君等の指導で一人前の男にしたいと思ふ。馬鹿ではないが文學みたやうな事が好きで、數學の方が得意でない。もう文學は一切やらせないことにしたが、君もまあさう云ふ方向でこれを薫陶してくれ給へ。」
「もう二三日のうちに自分は親たちから離れて死んでしまふ。自分のそんな心は少しも知らないで、親達は自分の行先のことを心配してゐる。」さう富之助が思ふと、危くも目へ涙が湧き出さうになる。
「こつちの學校に居た間は伜も大分成績が良かつたやうだが、どうも東京へ出てから去年も今年も思はしくない。尤も東京は諸國から秀才が集るのだて。鳥なき里の蝙蝠《かうもり》位では役に立たないかも知れないが……」さう言つてちよつと考へて、「まあ友だちと文學をやるのが、是が一番行かない事だらうと思ふ。わしが東京へ出て監督してやれば可いのだが、さう云ふわけにも行かないのだて……まあ何分にも君方等に頼みます。」
 父のこんな言葉が鹿田に對しては皮肉になるだらうと、富之助は思つた。
 到頭その晩は鹿田が富之助の家に宿ることになつた。もう姉のおつなが二人の床を一つ部屋に取つて、蚊帳を吊つてしまつた。
 母が「あなたは今日はお勞《つか》れでせうからもうお休みなさい。」と言つた。
 富之助は夜床へ入つてからも早くは寢つかれぬ性であつた。それで蚊帳の中で本を讀むのが癖であつた。そんな風な自由が今夜は阻害されるであらうと思つて不快になつた。それ故に初め鹿田だけの床を敷いてくれと頼んだが、何も知らない姉はそれを承知しなかつた。
 若しやそんなことはあるまいと思ひながら、富之助の頭には或る不祥な想像が閃くことがある。それを考へなほすのは非常に不道徳な事に思はれて、なるべく考へまいとする。それで今夜は一晩寢ずに居よう。それが一番よいと決心した。
 然し萬一夜中に客が起きて便所に行くとしたところで、其れまでの間には家の人の寢てゐる部屋をば通る必要は少なかつた。姉のおつなは二階に寢た。二人は下の新座敷の隅の間で、夜靜かになると川の水音が響いた。

 次の朝はいつになく早く富之助は目を覺した。夢の記憶は少しも殘つて居ないが、そのあとの不快が殘つた。
 今日は客を案内してその宿へ連れてつてやらう。そして自分は今までの事一切を姉に懺悔して、そつと旅へ出よう。彼の男の毒の眼が姉を窺《うかが》つてゐる間は姉には外出させまい。
 そんな事を考へてゐると、突然忘れはてた今曉の夢が思ひ出された。近藤といふ友達が内證だが君に話すと云つて、小さい聲で富之助の耳にささやいた。君鹿田が君の方へ行くつて云つたらう、ありや君のシスタアを狙ひに行くんだと云ふんだぜ。君、あの男は恐《こは》いぜ。
 鹿田が言つた。さあ、僕にお前の着物を借せ、帽子も、シャツも。可いか、これからお前が僕になつて、僕がお前になるんだぜ。僕はお前んとこに住む。それがいやならお前のお父さんに皆云つてしまふぜ。お前が己《おれ》の稚子《ちご》だつて。お前はおれに連れられて吉原を見物に行つたつて事まで……
「今日はどうしても斷行する。」さう富之助は考へた。「唯姉に皆言つてしまふことは止《よ》さう、あの男は惡い男だから要心しなさいつてことだけは言はう。そしてわたしは内に居るのはいやだから旅行すると云つて出て行かう。誰も知らない遠國の山の中へ入つて行つて、そこから一伍一什《いちぶしじふ》を認《したた》めて、姉や父母に詫を言はう。そして誰も知らないやうにこの世界から別れてゆかう……」
 かう云ふ空想は悲哀であるよりも慰藉であつた。七時が鳴るまで富之助はそんな事を考へ續けた。枕の布が涙で濕つてゐた。

 朝のうちに富之助は客を送つて海岸傳ひに半里ほどの小村落へ行つた。老人が隱居に建てて、自分は住まぬうちに死んで、其後は避暑の客に貸せる漁夫の家の離座敷である。
 昨日と違つて日は赫々《かくかく》と海、波、岸の草原を照射した。
 客を送つて歸つて來て、富之助は一安心して二階の自分の部屋に寢た。そしてすぐ旅行に立たうといふ今朝の考とは反對に、唯何
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