となく時間を過した。
午後姉は二階の富之助の部屋の隣の部屋で長い間縫物をした。そこには琴、鏡臺、二三の女に適《ふさ》はしい書籍の類があつて、おつなの稀にする美的生活の一面を暗示するのである。富之助は默つて姉の女らしい所を觀察した。
殊に姉がこの日の日盛を少し過ぎた頃に髮を洗つて、その房々とした毛を輕く藁で結はへて二階に上つて來たときには、姉とは言ひながら、強い性の印象を富之助に與へた。そしてそれがいよいよ富之助をして彼の鹿田を恐れしむる原因となつた。
富之助がさう云ふ風に自己に第三者の眼を與へて觀察すると、ここの家庭に一種濃厚の雰圍氣のあることを知つた。老父の詩人的趣味、母の女らしい優しみは無論その空氣を構成するものであつたが、もつと大きな要素は實におつなの成熟した處女としての現象であつた。
鹿田はその日の夕刻、さう云ふ濃厚な妖氣中にはひつて來たのである。
その日は勿論、次の日も富之助は旅行に出なかつた。
河口に汽船の笛がする。また日に幾度かは停車場で汽車の響がする。その度毎に富之助は腸《はらわた》を動かしてゐる。
第三日の午後富之助は鹿田と伴つて、漁舟を借りて釣に行つた。さうして、いやいやながら鹿田と交際《つきあ》つてゐるうちに、漸く鹿田の性格の變化に氣が付いた。夏休前東京で會つた時とは違つて、非常に沈默家になつて居る。そして始終何か考へ事をしてゐるやうである。元來氣味惡い其眼元には、また一種の暗光が燃えて居る。
しかのみならず彼は富之助に對して未だ嘗つて示したことのない鄭重な態度を取つた。一たびも冗談を言はない。何時も醜い恐ろしい口は大抵堅く鎖《とざ》されてゐる。釣などする時には、年少者のやうに、いろいろの事を富之助に教はつて、釣に餌《ゑさ》をつけ、絲を水に投げる。そしてぼんやり考へ込む。
夕日の眞赤な光が對岸の緑の平野の上に被ひかぶさつて、地平線を凸凹《でこぼこ》にする銀杏樹《いちやう》らしい、また欅《けやき》らしい樹の塊りは、丁度火災の時のやうに、氣味わるく黒ずんでゐる。川の上には金のやうな光が映つた。
その時、今まで默つてゐた鹿田が言つた。
「どうだらう。こんな時に水の中へ沈んだら愉快だらう。一緒に飛び込まうか。」
この言葉の調子は冗談とは聞かれないほどであつた。富之助はぎくりとした。
少時《しばらく》してからまた鹿田がこんな事を言つた。「今朝僕の下宿の隣の家へ東京から女學生が二人來た。自炊をするのだつて云つて。それが君の姉さんの友達だと見えて、君の姉さんも尋ねて來られた。」
富之助はこの言葉を聽いて二度ぎつくりとした。ぐづぐづして居られないと思つたからである。然し鹿田が直接富之助の姉に就いて語つたことは是れが最初であつた。また最後であつたかも知れない。
舟が岸に戻つたときは、もう薄明《はくめい》の時だつた。富之助が舟から色々のものを取り出してゐると、後ろでやさしい聲が聞えた。
「富ちやんかえ、たいそう遲くなつたねえ。」
見ると姉が隣の子を背負つて岸に立つてゐる。夕方のぼんやりと青ずんだ空氣の中に、其ほのかに白い姿は魔のやうであつた。
「あんまり遲いから迎へに來たの。」
姉は鹿田に目禮して、富之助にさう云ふのである。
二人は姉を先にやつて、漁夫の一人に荷を持たせて其後から行つた。
その時鹿田は一言《ひとこと》も物を言はなかつた。
一體鹿田が一日一日氣むづかしくなつて行くのは富之助にも分つた。そして富之助に對する態度も夏休前とは全く異つて、異常に鄭重《ていちよう》で、少しも馴れ馴れしい所を示さなかつた。殊に今日釣に出てからは殆ど物を言はないで、唯考へ事ばかりしてゐるやうに見えた。
姉のおつなを見ると、よくは見ない風をした。
が富之助は鹿田のこんな風な態度を見て、無意識に或る事を直感してゐる。即ち心情に強い刺戟をうけた野蠻人に對する畏怖の念である。
富之助が鹿田の住んで居る宿へ行つて見た時には、鹿田はぼんやりとして煙草を飮んでゐた。本もない。荷物も何もない。唯机の上に鏡と化粧道具とがあつた。どうして毎日日を送つてゐるか想像が出來なかつた。
窓へ腰を掛けると、少し小高くなつた丘から、直ぐ目の前の海が見える。葵《あふひ》の花が薄赤く咲いてゐる。「あの家だ。」と鹿田が指をさして教へた。「東京から女學生が來た家は。」
姉の友だちのことは姉から其後富之助は聞いた。そして時々姉がその宿へ遊びに行くことを知つてゐる。鹿田の爲めには、もつて來いの状態である。さう富之助が思つた。「もう一刻も猶豫はしてゐられない。」
夕方歸る時に鹿田のゐる漁家の小さい息子が車に米俵を積んで町へ行くのと一緒になつた。そこで富之助はその子に聞いた。
「お前のとこに來た東京のお客さんは酒を飮むかえ。」
「へい、
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