い。
暫く何にも考へないで居ると、客は何となく非常に心持のよい感じから突然襲はれた。それは聲であつた。遠い方で「功さん」と呼んだのが二度目の聲ではつきり分つたのである。今まで彼は「功さん」といふやうに本名を呼ばれたことはない。それ故自分に尤も親しい名でゐながら彼は聞き損《そ》くなつたのである。
やがて五十ばかりの柔和な老母が庭に現はれた。それが富之助の母親であるといふことは、客は直ぐ推量した。
老女は別に角ばつた挨拶もしないで「ねえ功さん、富之助は何處へ行つたのでせう。今朝からあんなにあなたをお待ち申して居ましたのに。きつとあなたが今日は來ないとでも思つたのでせうかね。いつも夕方なんぞに外へ出ることは無いのですが。――今使を見せにやりましたから、もうすぐ歸つて來ませう。それまでに、風呂が涌きましたから一つおはいりなさい。」と言ふのであつた。
客は立ち上つた。そして庭下駄をはいて老女の後について行つた。心の中には一種感謝の情に似る感情が起つて來た。
富之助は其間に漁夫町に出たが、他に時を銷《け》す處がないから、釣道具を賣る店に寄つた。そこの息子は彼の小學校友達である。それが久しく會はないからお互に遠慮があつて、やや改まつた口調で二人は感傷的な懷舊談を取交はした。留吉と呼ばれたその若者は子供の時分から漁業に從事してゐたが、去年暴風に遭つて難船し、同船の兄をば見す見す殺した爲めに發心してその職業を止《や》めた。二人はそんな話をしたり、またそのうち凪《なぎ》の好い日には、投網《とあみ》だの、釣道具だのを持つて、是非船を出さうなどといふ相談をしたりなどした。
家々の燈が漸く明るくなつて、河沿ひの狹い漁夫町の街道は、それ相當の繁劇の状況を呈してゐる。家と家との間に、黒い靜な水の面が見えて、對岸の村落の微《かすか》な燈影などが隱見するのに出會《でくは》すと、自分の故郷が如何に美しい處だといふことを今更ながら思つて、一種甘美の悲哀を帶びたる情緒の起るのを感じた。町の傳説と共に傳はる昔の歌を歌ふものがある。
河上から下つて來た汽船が鈍い響を立てたりしてゐる。彼は多感な少年者が感ずる如き、故もしらぬ愁に打たれ、それからいろいろの空想が起つて、死といふものが何ともいはれず美しいものに思はれ出した。
自分が死んだならば、後の人もみんな同情を寄せるだらう。そして生前自分に對して餘りに苛酷過ぎたと思ふのだらう。そのうちでも母と姉とは最も悲しむだらう。この二人の人の悲傷は、自分の死を弔ふに十分である。彼等の涙は慰藉である。唯……自分が生前に何等の譽《ほまれ》を持つてゐなかつた事は物足らない。せめて自分が中學の特待生でもあつたら可《よ》かつたらう。……
自分の死といふものを中心にすると、諸《もろもろ》の聯想は夕立前の雲のやうに蜂起するのであつた。
そんな風に、富之助が自分の空想に沒頭して居るうちに、何時か足が小さい橋の上に停つてゐた。其下の川は、そこで直接大河に注ぎ、四邊の眺望が好かつたから、大勢の人がその上に集つてゐた。折柄向ふ岸の空が異常に赤く、まつ黄いろな大きな月が悠々と地平から離れる所であつた。
その時富之助は自分を迎ひに來た女中に發見せられた。
「富之助さん、お迎ひに上りました。」とその女中が言つた。「東京のお客さんがお着きになつて、皆貴方が何處へ行つたかつて心配してゐます。」
富之助はそこで重い氣になつて、家の方へ歸つた。
下の八疊間に明るい電燈が點いて、鹿田がひとりで新聞を見てゐた。
「やあ失敬。」と挨拶した富之助の聲は異常に顫《ふる》へてゐた。
富之助のおつ母さんが出て來て、柔和に富之助をたしなめ、そして客に丁寧に其子の我儘を謝した。そんな事をしなくつとも可いのにと腹の中では思ひながら富之助は默つてゐる。
もう庭に蟲が鳴き出したりしてゐる。そこへ夕飯の仕度が運ばれた。姉が一生懸命にはたらいたと見えて常には拵へないやうな料理が澤山出來てゐた。富之助は自身の姉を不憫《ふびん》に思つた。何にも知らない故に自分に害意を有してゐる人の爲めに、あつたらの骨折をする。さう思ふと自分の男らしくないことが腹立しくなつた。何故自分は何もかも悉皆《すつかり》姉に言つてしまはないだらう。姉は今危地に居る。それを知つてゐる自分が親身の姉を救ふことが出來ない。若しその事を言へば自分に不信の友があることが分る、それが分れば自分が何よりも大事にしてゐる祕密が曝露する。富之助は殆ど食慾がなく、いろいろの事を思ひ煩ひながら、唯器械的に手を動かす。その傍で姉は給仕をしてゐるのである。ちやうど心の清い尼さんが僧形《そうぎやう》をした貪婪《どんらん》の惡魔の前にゐるかと思はれるのである。
夕飯が終つてから富之助は鹿田を連れてしぶしぶ散歩に出た。まづ河
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