れ》も、あの市來知《いちぎしり》にある、野菊《のぎく》の咲《さ》いてる母親《マザー》の墓《はか》にだけは行《ゆ》きたいと思《おも》つてゐる。本當《ほんたう》に市來知《いちぎしり》はいゝ所《ところ》だからなあ。』
彼《かれ》は、彼自身《かれじしん》の足跡《あしあと》をふりかへつて靜《しづ》かに嘆息《たんそく》するやうに云《い》つた。
二人《ふたり》のこんな話《はな》しは、いつまでたつてもつきなかつた、彼女《かれ》の云《い》ふ山《やま》や川《かは》や木《き》が、彼《かれ》の眼《め》にすぐに感《かん》じられ。彼《かれ》のいふ空《そら》や草《くさ》や建物《たてもの》は、彼女《かれ》の心《こゝろ》にすぐ氣《き》づいて思浮《おもひうか》べることが出來《でき》るからであつた。もしも二人《ふたり》がはなればなれの見《み》も知《し》らない土地《とち》に生《お》ひ立《だ》つたとしたらどうであつたらう。まち子《こ》は、そんな事《こと》を、またふと考《かんが》へると、幸福《しあはせ》なやうな氣《き》がすることもあつた。
そんな事《こと》を、あまり熱心《ねつしん》に、そして感傷的《かんしやうてき》に話《はな》し合《あ》つたのちは、二人《ふたり》とも過去《くわこ》の山《やま》や川《かは》にその心《こゝろ》を吸《す》いとられたやうに、ぽかんとしてゐた。お互《たがひ》になんとなくつまらない、とりとめもない不安《ふあん》と遣瀬《やるせ》なさが、空虚《くうきよ》な心《こゝろ》を包《つゝ》んでゐるやうであつた。二人《ふたり》は家《いへ》にゐることが淋《さび》しく、夜《よる》になつて寢《ね》ることがものたりなかつた。
『外《そと》に出《で》てみないか。』
『えゝ、家《いへ》にゐてもつまらないわね。』
そして彼《かれ》と彼女《かれ》とは、子供《こども》を抱《だ》いて家《いへ》を出《で》るのであつた。けれども、どこと云《い》つてあてもないので、二人《ふたり》はやはり電車《でんしや》にのつて銀座《ぎんざ》に出《で》てしまつた。
末男《すゑを》は子供《こども》を抱《だ》きながら、まち子《こ》と一|所《しよ》に銀座《ぎんざ》の明《あか》るい飾窓《かざりまど》の前《まへ》に立《た》つて、星《ほし》の見《み》える蒼空《あをそら》に、すき透《とほ》るやうに見《み》える柳《やなぎ》の葉《は》を見《み》つめた。そして、しばらく自分《じぶん》だちとはかゝはりもなく、行來《ゆきゝ》する人《ひと》の足音《あしおと》を聞《き》いてゐた。
『どうしませうね。』
やがて、まち子《こ》は立《た》ちくたびれたやうに云《い》ふと、末男《すゑを》は氣《き》づいてあてもなく歩《ある》き出《だ》した。しかし足《あし》の惡《わる》いまち子《こ》は、すぐに疲《つか》れるので、やがて靜《しづ》かなカフエーかレストランドに入《はひ》らなければならなかつた。
二人《ふたり》は、子供《こども》を抱《だ》いて明《あか》るい通《とほ》りから折《を》れて、暗《くら》い道《みち》を歩《ある》いた。暗《くらい》い所《ところ》に來《き》ても、銀座《ぎんざ》の明《あか》るみを歩《ある》く人《ひと》の足音《あしおと》は聞《きこ》えた。
『銀座《ぎんざ》はずゐぶん、いろんな人《ひと》が歩《ある》いてゐさうだわね。』
まち子《こ》は、夫《をつと》のあとから歩《ある》きながら、一人《ひとり》ごとのやうにきこえない位《くらゐ》な聲《こゑ》で云《い》つた。そして、あのぞろ/\と歩《ある》いてゐる人《ひと》の一人一人《ひとりひとり》の過去《くわこ》や現在《げんざい》、また未來《みらい》のことを考《かんが》へたらきつとお互《たがひ》になにかのつながりを持《も》つてるに違《ちが》いないといふやうな氣《き》がした。
やがて二人《ふたり》は、あるレストランドの二|階《かい》の一|隅《すみ》に腰《こし》をおろした。まち子《こ》は疲《つか》れた身體《からだ》をそつと椅子《いす》にもたれて、靜《しづ》かな下《した》の道《みち》をのぞこふと窓《まど》をのぞくと、窓際《まどぎは》に川柳《かはやなぎ》の青白《あをしろ》い細《ほそ》い葉《は》が夜《よる》の空《まど》[#ルビの「まど」はママ]に美《うつく》しくのびてた。
まち子《こ》は、いつまでもいつまでも誰《たれ》も何《なに》も云《い》はなかつたら、その青白《あをしろ》い細《ほそ》い葉《は》の川柳《かはやなぎ》[#ルビの「かはやなぎ」は底本では「かはなぎ」]を見《み》つめてゐたかもしれない。この川柳《かはやなぎ》も古郷《こきやう》に多《おほ》い。彼女《かれ》は、それをじつと見《み》つめてゐると、また昔處女《むかしゝよぢよ》であつた折《をり》に、病《やまひ》の爲《た》めに常《つね》に淋《さび》しかつた
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