家を出た。家のなかはすつかり靜まりかへつてしまつた。
 多緒子は、その靜けさのなかに一人とり殘されたやうに、ぢつと眼を閉ぢてゐることが出來なかつた。彼女の心は我子を思ふ愛情の堪へがたさに波うつて、そしてはげしくふるへてゐた。彼女はたゞ一人靜かに起き上つた、そして力なくゐざりながら窓際によつて、霧につゝまれた裏の松林の小路《こうぢ》を見つめた、多緒子は、かうして自分が見つめてゐるうちに、ひよつとどこかの松の陰から幸子が夫の手に抱かれて出て來やしないか。この小路を歩いて來やしないか。と思はれてならなかつたのだ、もしやさうして私の所に來るのだつたならば、出來るだけこの窓から眼のとゞくかぎりの遠くに歩いて來る夫《をつと》、我子をも見のがすまいと思ひつめてゐた。
『母さんや、母さんや、』
 ふつと霧につゝまれた松林のなかから、巍《たかし》の喜びにみちたやうな聲を聞いた時、多緒子ははつとして大きな眼を見はりながら、
『幸子《さちこ》や。』と漸く咳の出さうな咽喉をおさへて、半ばかすれたやうな聲で出來るだけ大きく聞えるやうにと叫んだ。するともういつの間にか幸子が、不似合な冬の頃の赤い着物を無雜作にきせ
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