晩ですつかり蚤にくはれて眞赤になつてるんだ。多緒子、見てごらん、まるで金魚のやうになつてゐるんだ。たつた一晩で、のみとり粉も買つてやつたのに、金魚のやうに食はれてゐるんだ。これぢや泣くのもあたり前だよ。きつと昨晩《ゆうべ》は夜通し泣いてゐたんだらうな可哀想に、もうどこへもやらないよ。父さんが夜一つもねないでもいゝ、父さんが抱いて、お前をよくねせてやるからな。もう大丈夫だ。もう決してどこへもやらないよ。一晩でも父さんがお前をはなしたのは、本當に惡かつたな。』
 と、いつか巍の言葉は幸子に對して言つてゐるのであつた。多緒子は、その話を聞いて涙ぐみながら、もはやほゝ笑んで乳房からはなれてゐた幸子の身體を、着物をほどいて見てゐた。本當に一つも蚤にくはれなかつた子供の美しい肌が、幾許《いくら》とも知らないぶつ/\の爲めに眞赤《まつか》になつてゐるのであつた。
 あゝそればかりでない、多緒子は一夜のうちに清い、美しい、愛する我子がどことなくよごされ、どことなく汚されたものゝやうになつたやうな氣がした。如何なる血のものか、いかなる肉體《からだ》のものか、わからない他人《ひと》の乳、それがわづかでも我子の肉體《からだ》を流れたかと思ふと、彼女はとりかへしのつかないことをしたやうな氣がしてならなかつた。
 またすべて、只の一夜で幸子のものが部屋のなかに擴げられ、部屋のなかに我子のすべてが行き渡つてるやうな氣がした。
 それから巍《たかし》は日中、ほとんど一人の手で幸子《さちこ》の守《もり》をした。そして漸くのことで牛乳をのませた。けれども夕方になると、砂山の上の小さな丸い草の葉を凉しい風が靜かにふき初めると、幸子は一日の務め、苦しい務め、忍耐にたへかねたといふやうに、そして逃れるやうに泣いて母親を求めた。誰の手にも誰れの懷《ふところ》にも行かなかつた。そして母親の懷《ふところ》に抱かれないならば、一|夜《や》でも泣きあかさうとした。そして、決して眠るまいと決心してゐるやうであつた。けれどもどんなに泣き叫んでる時でも多緒子の胸に抱かれゝばすぐ安らかに寢た、しかし一夜の間幸子は夢にも母親の胸をはなれまいとしてすがりついた。幸子は、すべてをさとつてるやうに、只夜だけの我に安息を與へて呉れと願ふやうに、朝になれば誰の手にもよろこんで、小さな可愛い手を出した。
 夏がすぎて爽やかな秋になろうと
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