するころ、多緒子の肉體もいつか心よくなつて來た。氣の向いた朝や夕べには、折々砂の上に片足をおろすこともあつた。そして幸子の咳は殆んど忘れたやうに根だえてゐた。
 幸子は、機嫌がよくなつた。めつたに泣く事がなかつた。そしてまた肥えて來た。巍《たかし》は夕方幸子を抱いて、樂しさうな讃美歌を大聲《おほごゑ》で歌ひながら、砂山から海の方へ行つた。そしてまた小高い砂山の上に立つて空を見上げながら、大聲《おほごゑ》で歌を唄つた。そしてまた多緒子が寢てゐるすぐま近かな家の方を見おろして、
『かあさん、かあさん。』と呼んだ。多緒子は床のなかで、夫《をつと》の唄ふ歌の聲を嬉しさうに聞いてゐた。そして快くなりかけた肉體《からだ》のすべてに幸福な哀愁が、靜かに流れてゐるのを覺えた。
『かあさん、かあさん。』
 巍の聲がまた彼女の耳にひつついて來ると、多緒子は笑ひながら起き上つて、ゐざりながら縁側に出た。そして遠い砂山の上に立つて、落日に顏を赤くそめながら、夕風に髮をふかれて、大聲《おほごゑ》で歌を唄つてるわが夫と我子とを見た。彼女は彼とともに大聲を出して歌を合せやうとした。しかし聲が出なかつた。
 彼女は笑つた。そして小《ちひ》さな聲ですぐ眼の前の人を呼ぶやうに、しかしながら遠い我子と我《わが》夫《をつと》とを見つめて、
『幸子《さちこ》、父《とう》さん。』
 と呼んだ。



底本:「青白き夢」新潮社
   1918(大正7)年3月15日発行
初出:「文章世界」
   1917(大正6)年8月号
入力:小林 徹・聡美
校正:松永正敏
2003年12月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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