前が死なゝければならない時には、幸子も俺も死んだ方が幸福なのだ。お前が死ぬ時には、きつとみんな一緒に死なう。幸子が孤兒になる。そんなことは決してない。』巍《たかし》は言つた。
 死なうとするのも、生きようとするのも、すべて愛の爲めであつた。そして生きることも死ぬことも絶對なのだ、若い兩親は、一人兒《ひとりご》の爲めに生きやうし、また死なうとした。
 多緒子は衰弱した。そして幸子が彼女の乳をのむことは、彼女の血を眞實吸ひとるかのやうに思はれた。彼女と巍《たかし》とは幸子に對する目前の愛に捉はれないやうにと、我子の生先を氣づかつて、醫者のすゝめのまゝに、すぐほど近くの百姓家へ、一時母親の乳をはなすためにあづけた。
 部屋のなかに散らばつてゐた幸子の必要なすべての品々は持ち去られた。そして横になつてる多緒子は眼をうすくして室内を見廻したが、我子のものは何物もなかつた。彼女は靜かに眼を閉ぢて眠りに入らうとしたが、心のなかには何物も待つものゝない頼りなさ、目覺めても黄昏《たそがれ》になつても、そして夜になつても、泣いて歸つて來る我兒がゐないことを思ふと、彼女は安らかに瞳を閉ぢることが出來なかつた。多緒子の痩せた胸にとび出た乳房は、幸子のことを思ふと、つまるやうになつてかたく張つて來た。
 幸子をつれて置いて來た巍《たかし》は、すぐ歸つて來たが、うろ/\と部屋のなかを歩いてなか/\坐らうとはしなかつた。多緒子はかたく張つた乳をおさへては時々何か言はうとしては、巍《たかし》の方を見た。彼はふと窓際に腰をおろして考へるやうにしてゐたが、
『幸子が泣いてつれられて來たんぢやないか、たしかに幸子の泣き聲だ、俺は泣いてこまるやうだつたら、すぐつれて來てくれと言つて來たんだから。』
 と、あわてたやうに外《そと》に飛び出した。
 その夜|二人《ふたり》は、各々《おの/\》の心のなかに響く子供の聲に、幾度となく目覺めて耳をすました。そしてあけやすい夏の空が白んだと思ふと、巍は飛び起きて部屋の戸をあけはなした。白い曉の空氣は、靜かに部屋のなかに流れ込んだ。けれども何物もないすべてのものを奪ひ取られたやうな彼は、ぶらつと部屋のなかに立つてゐた。そして彼女は流れて來た白い朝の光りをそつと見ると、堪へがたく悲しみに打たれたやうに、再び眼を閉ぢた。
 巍は氣がついたやうに、幸子の樣子を見てくると言つて
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