めた。彼女は、そのあとに從つて、ひそかにかなしい杖の音を立てたが、危さと苦しさと、弱い恐れとかなしみが、彼女のすべて[#「すべて」は底本では「すべで」]を圍繞《ゐねう》した、けれども、彼女は、はずむ息を靜めた。苦しさが醜さを、ともなひはしないかと、恐れたのであつた。そして、只その瞳に戀人の足元を見ることが出來たから、涙のやうな微笑をうかべて、無言のまゝ階段の上に、足をすゝめた。
 漸く彼女が、階段《きざはし》を降りて地上に立つた時、ふりそゝぐやうにかぶさる、秋の強い日光の黒い木棚のそばに、戀人の青い衣の輝きを見た。彼は、降りて來た階段の高さを、振り仰ぐ瞳のなかに、彼女を見た。彼女の蒼白い頬には、瞳のあたりまで紅《くれなゐ》の色が上つてゐた。紫に輝く髮の上に、重たい光りのおもさを感じてゐるやうであつた。うつむいたまゝ足元の影を見つめてゐる。そして、彼女の黒塗の杖は、銀いろに輝いてゐた。
『彼女は、かなしんでゐる。』さう思つた時、彼は、彼女に對して自分の感情をつたへる、言葉を一|言《こと》も見出さなかつた。彼は、彼女を後に振りかへるやうにして、靜かに車内《しやない》に入つた。彼女は影のやう
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