われは横ぎりぬ。
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夕の海
徐《しづ》かで確実な夕闇と、絶え間なく揺れ動く
白い波頭《なみがしら》とが、灰色の海面《うみづら》から迫つて来る。
燈台の頂《いたゞき》には、気付かれず緑の光が点《とも》される。
それは長い時間がかゝる。目あてのない、
無益《むえき》な予感《よかん》に似たその光が
闇によつて次第に輝かされてゆくまでには――。
が、やがて、あまりに規則正しく回転し、倦《う》むことなく
明滅《めいめつ》する燈台の緑の光に、どんなに退屈して
海は一晩中|横《よこた》はらねばならないだらう。
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いかなれば
いかなれば今歳《ことし》の盛夏のかがやきのうちにありて、
なほきみが魂にこぞの夏の日のひかりのみあざやかなる。
夏をうたはんとては殊更に晩夏の朝かげとゆふべの木末《こぬれ》をえらぶかの蜩の哀音《あいおん》を、
いかなればかくもきみが歌はひびかする。
いかなれば葉広き夏の蔓草《つるくさ》のはなを愛して曾てそをきみの蒔かざる。
曾て飾らざる水中花と養はざる金魚をきみの愛するはいかに。
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決心 「白の侵入」の著者、中村武三郎氏に
重々しい鉄輪《てつわ》の車を解放《ときはな》されて、
ゆふぐれの中庭に、疲れた一匹の馬が彳《たゝず》む。
そして、轅《ながえ》は凝《じつ》とその先端《さき》を地に著けてゐる。
けれど真《しん》の休息《きうそく》は、その要のないものの上にだけ降《お》りる。
そしてあの哀れな馬の
見るがよい、ふかく何かに囚《とら》はれてゐる姿を。
空腹《くうふく》で敏感になつたあいつの鼻面《はなづら》が
むなしく秣槽《まぐさをけ》の上で、いつまでも左右に揺れる。
あゝ慥に、何かがかれに拒《こば》ませてゐるのだ。
それは、疲れといふものだらうか?
わたしの魂よ、躊躇《ためら》はずに答へるがよい、お前の決心。
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朝顔 辻野久憲氏に
去年の夏、その頃住んでゐた、市中《しちゆう》の一日中陽差の落ちて来ないわが家《や》の庭に、一茎《ひとくき》の朝顔が生ひ出でたが、その花は、夕の来るまで凋むことを知らず咲きつづけて、私を悲しませた。その時の歌、
そこと知られぬ吹上《ふきあげ》の
終夜《しゆうや》せはしき声ありて
この明け方に見出でしは
つひに覚めゐしわが夢の
朝顔の花咲
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