ならば、今この男が吐いた感想位の思想は、常に彼の言葉の随所に見出せるのではなかろうか。ただ我々の方にそれを見出すだけの能力《ちから》と根気とが無いだけのことではないのだろうか。更に、その鈍重・難解な言葉をよくよく噛分けている中には、我々にも、この男の愚昧《ぐまい》さの必然性が――「何故に彼が常にかくも、他人の目からは愚かと見えるような行動に出ねばならないのか、」の心理的必然性がはっきり[#「はっきり」に傍点]のみ込めて来るのではないだろうか。そうなって来れば、やがて、M氏がM氏でなければならぬ必然さと、我々が我々であらねばならぬ必然さとの間に――あるいは、ゲーテがゲーテであらねばならなかった必然さとの間に――価値の上下をつけることが、(少くとも主観的には)不可能と感じられてくるだろう。現に、M氏は先刻の感想の中で、明らかに、自分を上の階段まで達しているものとし、彼を嘲弄する我々を、「下の階段にいながら上段にいる者を哂《わら》おうとする身の程知らず」としているに違いない。我々の価値判断の標準を絶対だと考えるのは、我々の自惚《うぬぼれ》に過ぎないのではないか。(このM氏の例を、類推の線に沿
前へ
次へ
全53ページ中45ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング