と一語一語ゆっくりと自分の今の発音を自分の耳で確かめてから次の発音をするように続けて行く。もう二十年もこの学校に勤めているらしいが、その勤続年数よりもその間に幾人かの細君に死なれたり、逃げられたりしたという事の方が有名である。それに、もう一つ、職員と生徒との区別なく、若い女と見れば誰でもすぐに手を握る癖のあることもみんなに知られている。別に悪気《わるぎ》があるという訳ではなく(悪気をもつほどの頭の働きはこの人に無いと、一般に信じられている。)ただもう、抑えることも何も出来ずに、ひょいと握ってしまうものらしい。幾度悲鳴を上げられたり、つねられたり、睨《にら》まれたりしても、一向感じないし、感じても次の時には忘れてしまうのかも知れない。よく、それで馘《くび》にならないものだが、あの御面相だから大丈夫なんでしょう、と笑う職員もいる。このM氏が、誰も相手になってくれるものが無いせい[#「せい」に傍点]か、週に二日しか出て来ない三造をつかまえて、しきりに色々と話をしたがるのだ。私はフランス語をやります、というのだが、聞いて見ると、それがラジオの初等講義を一・二回聞いただけらしいのである。しかし本
前へ 次へ
全53ページ中36ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング