人は別に法螺《ほら》を吹くつもりで言っているのではなく、本当にそれでフランス語をやったといえるつもりなのである。この調子でM氏はドイツ語も漢詩も和歌も皆やるという。こういう話を聞きながら、三造は、M氏の鈍い眼付の中に何処か兇暴なものがあることに気のつくことがある。追い詰められた弱い者が突然攻勢に出て来る時のような自棄的なものがあるような気がするのである。
 手紙を渡しても、果して、M氏はなかなか帰る様子もなく、アリゲエタアの剥製の下に腰を下して、例のゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]した調子で話し始めた。その中に、どういうきっかけ[#「きっかけ」に傍点]からか、話が彼の現在の(彼よりも二十歳も年下の)細君のことになり、彼は大真面目で自分と結婚する前の彼女の閲歴などを語り出した。これは少しヘン[#「ヘン」に傍点]だぞ、と思っていると、M氏は手にした風呂敷包(今まで私は気づかずにいたのだが、それをわざわざ見せるためにM氏は私の処へ来たのだ)を開いて、中から分厚な一冊の本を取出して卓子の上に置いた。表紙を見ると、薄紫色の絹地に白い紙が貼られ、それに『日本名婦伝』と書かれている。
「家内のことが
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