る。かなり騒々しい職員室から、三造はいつも、この冷たい石たちと死んだ動物植物たちの中へ逃れて来て、勝手な読書に耽《ふけ》ることにしていた。
今彼の読んでいるのは、フランツ・カフカという男の「窖《あな》」という小説である。小説とはいったが、しかし、何という奇妙な小説であろう。その主人公の俺[#「俺」に丸傍点]というのが、※[#「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1−94−84]鼠《もぐら》か鼬《いたち》か、とにかくそういう類のものには違いないが、それが結局最後まで明らかにされてはいない。その俺[#「俺」に丸傍点]が地下に、ありったけの智能を絞って自己の棲処《すみか》――窖を営む。想像され得る限りのあらゆる敵や災害に対して細心周到な注意が払われ安全が計られるのだが、しかもなお常に小心翼々として防備の不完全を惧《おそ》れていなければならない。殊に俺[#「俺」に丸傍点]を取囲む大きな「未知」の恐ろしさと、その前に立つ時の俺[#「俺」に丸傍点]自身の無力さとが、俺[#「俺」に丸傍点]を絶えざる脅迫観念に陥らせる。「俺[#「俺」に丸傍点]が脅されているのは、外からの敵ばかりではない。大地の底に
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