ていた俺は、何という人間知らず[#「人間知らず」に傍点]だったことであろう! 杜樊川《とはんせん》もセザアル・フランクもスピノザも填めることのできない孔竅《あな》が、一つの讃辞、一つの阿諛によってたちまち充たされるという・人間的な余りに人間的な事実に、(そして、自分のような生来の迂拙《うせつ》な書痴にもこの事実が適用されることに)三造は今更のように驚かされるのである。
まだ寝るには早過ぎる。それに、どうせ床に入ったところで、いつものように二・三時間は眠れないに決っている。三造は何ということもなく、身を起して、ベッドの端に腰を下したまま、ぼんやり部屋の中《うち》を眺める。二・三日前、机の抽斗《ひきだし》を掻廻していたら、紙屑にまじって線香花火の袋が出て来た。夏の終に入れ忘れられたもので、まだ中に花火が少し残っていた。それをその時そのまま、また抽斗につっこんで置いたのを、今、彼はひょいと思い出した。彼は立上って抽斗からそれを取出す。花火を出して見ると、まだ、そんなに湿ってはいないらしい。彼は電燈を消して、マッチを擦《す》る。暗闇に、細い・硬い・輝きのない・光の線が奔《はし》って、松葉が
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