匹に打跨《うちまたが》ると、一鞭《ひとむち》あてて丘を駈下《かけお》りた。灰色に乾いた漠々《ばくばく》たる風景の中に、その姿がしだいに小さくなっていくのを、一軍の将士は何か心細い気持で見送った。
 十日の間、浚稽山《しゅんけいざん》の東西三十里の中には一人の胡兵《こへい》をも見なかった。
 彼らに先だって夏のうちに天山へと出撃した弐師《じし》将軍はいったん右賢王《うけんおう》を破りながら、その帰途別の匈奴《きょうど》の大軍に囲まれて惨敗《ざんぱい》した。漢兵は十に六、七を討たれ、将軍の一身さえ危うかったという。その噂《うわさ》は彼らの耳にも届いている。李広利《りこうり》を破ったその敵の主力が今どのあたりにいるのか? 今、因※[#「木+于」、10−7]《いんう》将軍|公孫敖《こうそんごう》が西河《せいが》・朔方《さくほう》の辺で禦《ふせ》いでいる(陵《りょう》と手を分かった路博徳《ろはくとく》はその応援に馳《は》せつけて行ったのだが)という敵軍は、どうも、距離と時間とを計ってみるに、問題の敵の主力ではなさそうに思われる。天山から、そんなに早く、東方四千里の河南《かなん》(オルドス)の地まで行けるはずがないからである。どうしても匈奴《きょうど》の主力は現在、陵の軍の止営地から北方|※[#「到」の「りっとう」に代えて「おおざと」、第3水準1−92−67]居水《しっきょすい》までの間あたりに屯《たむろ》していなければならない勘定になる。李陵自身毎日前山の頂に立って四方を眺《なが》めるのだが、東方から南へかけてはただ漠々《ばくばく》たる一面の平沙《へいさ》、西から北へかけては樹木に乏しい丘陵性の山々が連なっているばかり、秋雲の間にときとして鷹《たか》か隼《はやぶさ》かと思われる鳥の影を見ることはあっても、地上には一騎の胡兵《こへい》をも見ないのである。
 山峡の疎林の外《はず》れに兵車を並べて囲い、その中に帷幕《いばく》を連ねた陣営である。夜になると、気温が急に下がった。士卒は乏しい木々を折取って焚《た》いては暖をとった。十日もいるうちに月はなくなった。空気の乾いているせいか、ひどく星が美しい。黒々とした山影とすれすれに、夜ごと、狼星《ろうせい》が、青白い光芒《こうぼう》を斜めに曳《ひ》いて輝いていた。十数日事なく過ごしたのち、明日はいよいよここを立退《たちの》いて、指定された進路を東南へ向かって取ろうと決したその晩である。一人の歩哨《ほしょう》が見るともなくこの爛々《らんらん》たる狼星《ろうせい》を見上げていると、突然、その星のすぐ下の所にすこぶる大きい赤黄色い星が現われた。オヤと思っているうちに、その見なれぬ巨《おお》きな星が赤く太い尾を引いて動いた。と続いて、二つ三つ四つ五つ、同じような光がその周囲に現われて、動いた。思わず歩哨《ほしょう》が声を立てようとしたとき、それらの遠くの灯《ひ》はフッと一時に消えた。まるで今見たことが夢だったかのように。
 歩哨《ほしょう》の報告に接した李陵《りりょう》は、全軍に命じて、明朝天明とともにただちに戦闘に入るべき準備を整えさせた。外に出て一応各部署を点検し終わると、ふたたび幕営に入り、雷《らい》のごとき鼾声《かんせい》を立てて熟睡した。
 翌朝李陵が目を醒《さ》まして外へ出て見ると、全軍はすでに昨夜の命令どおりの陣形をとり、静かに敵を待ち構えていた。全部が、兵車を並べた外側に出、戟《ほこ》と盾《たて》とを持った者が前列に、弓弩《きゅうど》を手にした者が後列にと配置されているのである。この谷を挾《はさ》んだ二つの山はまだ暁暗《ぎょうあん》の中に森閑《しんかん》とはしているが、そこここの巌蔭《いわかげ》に何かのひそんでいるらしい気配《けはい》がなんとなく感じられる。
 朝日の影が谷合にさしこんでくると同時に、(匈奴《きょうど》は、単于《ぜんう》がまず朝日を拝したのちでなければ事を発しないのであろう。)今まで何一つ見えなかった両山の頂から斜面にかけて、無数の人影が一時に湧《わ》いた。天地を撼《ゆる》がす喊声《かんせい》とともに胡兵《こへい》は山下に殺到した。胡兵の先登《せんとう》が二十歩の距離に迫ったとき、それまで鳴りをしずめていた漢の陣営からはじめて鼓声《こせい》が響く。たちまち千弩《せんど》ともに発し、弦に応じて数百の胡兵《こへい》はいっせいに倒れた。間髪《かんはつ》を入れず、浮足立った残りの胡兵に向かって、漢軍前列の持戟者《じげきしゃ》らが襲いかかる。匈奴《きょうど》の軍は完全に潰《つい》えて、山上へ逃げ上った。漢軍これを追撃して虜首《りょしゅ》を挙げること数千。
 鮮《あざ》やかな勝ちっぷりではあったが、執念深い敵がこのままで退くことはけっしてない。今日の敵軍だけでも優に三万はあったろう。そ
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