李陵
中島敦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)漢《かん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)敵|匈奴《きょうど》の勢力圏
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)辺塞遮虜※[#「章+おおざと」、第3水準1−92−79]
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一
漢《かん》の武帝《ぶてい》の天漢《てんかん》二年秋九月、騎都尉《きとい》・李陵《りりょう》は歩卒五千を率い、辺塞遮虜※[#「章+おおざと」、第3水準1−92−79]《へんさいしゃりょしょう》を発して北へ向かった。阿爾泰《アルタイ》山脈の東南端が戈壁沙漠《ゴビさばく》に没せんとする辺の磽※[#「石+角」、第3水準1−89−6]《こうかく》たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。朔風《さくふう》は戎衣《じゅうい》を吹いて寒く、いかにも万里孤軍来たるの感が深い。漠北《ばくほく》・浚稽山《しゅんけいざん》の麓《ふもと》に至って軍はようやく止営した。すでに敵|匈奴《きょうど》の勢力圏に深く進み入っているのである。秋とはいっても北地のこととて、苜蓿《うまごやし》も枯れ、楡《にれ》や※[#「木+聖」、第3水準1−86−19]柳《かわやなぎ》の葉ももはや落ちつくしている。木の葉どころか、木そのものさえ(宿営地の近傍《きんぼう》を除いては)、容易に見つからないほどの、ただ砂と岩と磧《かわら》と、水のない河床との荒涼たる風景であった。極目人煙を見ず、まれに訪れるものとては曠野《こうや》に水を求める羚羊《かもしか》ぐらいのものである。突兀《とっこつ》と秋空を劃《くぎ》る遠山の上を高く雁《かり》の列が南へ急ぐのを見ても、しかし、将卒一同|誰《だれ》一人として甘い懐郷の情などに唆《そそ》られるものはない。それほどに、彼らの位置は危険|極《きわ》まるものだったのである。
騎兵を主力とする匈奴に向かって、一隊の騎馬兵をも連れずに歩兵ばかり(馬に跨《また》がる者は、陵とその幕僚《ばくりょう》数人にすぎなかった、)で奥地深く侵入することからして、無謀の極《きわ》みというほかはない。その歩兵も僅《わず》か五千、絶えて後援はなく、しかもこの浚稽山《しゅんけいざん》は、最も近い漢塞《かんさい》の居延《きょえん》からでも優に一千五百里(支那里程)は離れている。統率者李陵への絶対的な信頼と心服とがなかったならとうてい続けられるような行軍ではなかった。
毎年秋風が立ちはじめると決《きま》って漢の北辺には、胡馬《こば》に鞭《むち》うった剽悍《ひょうかん》な侵略者の大部隊が現われる。辺吏が殺され、人民が掠《かす》められ、家畜が奪略される。五原《ごげん》・朔方《さくほう》・雲中《うんちゅう》・上谷《じょうこく》・雁門《がんもん》などが、その例年の被害地である。大将軍|衛青《えいせい》・嫖騎《ひょうき》将軍|霍去病《かくきょへい》の武略によって一時|漠南《ばくなん》に王庭なしといわれた元狩《げんしゅ》以後|元鼎《げんてい》へかけての数年を除いては、ここ三十年来欠かすことなくこうした北辺の災いがつづいていた。霍去病《かくきょへい》が死んでから十八年、衛青《えいせい》が歿《ぼっ》してから七年。※[#「さんずい+足」、第4水準2−78−51]野侯《さくやこう》趙破奴《ちょうはど》は全軍を率いて虜《ろ》に降《くだ》り、光禄勲《こうろくくん》徐自為《じょじい》の朔北《さくほく》に築いた城障もたちまち破壊される。全軍の信頼を繋《つな》ぐに足る将帥《しょうすい》としては、わずかに先年|大宛《だいえん》を遠征して武名を挙《あ》げた弐師《じし》将軍|李広利《りこうり》があるにすぎない。
その年――天漢二年夏五月、――匈奴《きょうど》の侵略に先立って、弐師将軍が三万騎に将として酒泉《しゅせん》を出た。しきりに西辺を窺《うかが》う匈奴の右賢王《うけんおう》を天山に撃とうというのである。武帝は李陵に命じてこの軍旅の輜重《しちょう》のことに当たらせようとした。未央宮《びおうきゅう》の武台殿《ぶだいでん》に召見された李陵は、しかし、極力その役を免ぜられんことを請うた。陵は、飛将軍《ひしょうぐん》と呼ばれた名将|李広《りこう》の孫。つとに祖父の風ありといわれた騎射《きしゃ》の名手で、数年前から騎都尉《きとい》として西辺の酒泉《しゅせん》・張掖《ちょうえき》に在《あ》って射《しゃ》を教え兵を練っていたのである。年齢もようやく四十に近い血気盛りとあっては、輜重《しちょう》の役はあまりに情けなかったに違いない。臣が辺境に養うところの兵は皆|荊楚《けいそ》の一騎当千の勇士なれば、願わくは彼らの一隊を率いて討って出《い》
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