で、側面から匈奴の軍を牽制《けんせい》したいという陵の嘆願には、武帝も頷《うなず》くところがあった。しかし、相つづく諸方への派兵のために、あいにく、陵の軍に割《さ》くべき騎馬の余力がないのである。李陵はそれでも構わぬといった。確かに無理とは思われたが、輜重《しちょう》の役などに当てられるよりは、むしろ己《おのれ》のために身命を惜しまぬ部下五千とともに危うきを冒《おか》すほうを選びたかったのである。臣願わくは少をもって衆を撃たんといった陵の言葉を、派手《はで》好きな武帝は大いに欣《よろこ》んで、その願いを容《い》れた。李陵は西、張掖《ちょうえき》に戻って部下の兵を勒《ろく》するとすぐに北へ向けて進発した。当時|居延《きょえん》に屯《たむろ》していた彊弩都尉《きょうどとい》路博徳《ろはくとく》が詔を受けて、陵の軍を中道まで迎えに出る。そこまではよかったのだが、それから先がすこぶる拙《まず》いことになってきた。元来この路博徳《ろはくとく》という男は古くから霍去病《かくきょへい》の部下として軍に従い、※[#「丕+おおざと」、第3水準1−92−64]離侯《ふりこう》にまで封ぜられ、ことに十二年前には伏波《ふくは》将軍として十万の兵を率いて南越《なんえつ》を滅ぼした老将である。その後、法に坐《ざ》して侯を失い現在の地位に堕《おと》されて西辺を守っている。年齢からいっても、李陵とは父子ほどに違う。かつては封侯《ほうこう》をも得たその老将がいまさら若い李陵ごときの後塵《こうじん》を拝するのがなんとしても不愉快だったのである。彼は陵の軍を迎えると同時に、都へ使いをやって奏上させた。今まさに秋とて匈奴《きょうど》の馬は肥え、寡兵《かへい》をもってしては、騎馬戦を得意とする彼らの鋭鋒《えいほう》には些《いささ》か当たりがたい。それゆえ、李陵とともにここに越年し、春を待ってから、酒泉《しゅせん》・張掖《ちょうえき》の騎各五千をもって出撃したほうが得策と信ずるという上奏文である。もちろん、李陵はこのことをしらない。武帝はこれを見ると酷《ひど》く怒った。李陵が博徳と相談の上での上書と考えたのである。わが前ではあのとおり広言しておきながら、いまさら辺地に行って急に怯気《おじけ》づくとは何事ぞという。たちまち使いが都から博徳と陵の所に飛ぶ。李陵は少をもって衆を撃たんとわが前で広言したゆえ、汝《なんじ》はこれと協力する必要はない。今匈奴が西河《せいが》に侵入したとあれば、汝《なんじ》はさっそく陵を残して西河に馳《は》せつけ敵の道を遮《さえぎ》れ、というのが博徳への詔である。李陵への詔には、ただちに漠北《ばくほく》に至り東は浚稽山《しゅんけいざん》から南は竜勒水《りょうろくすい》の辺までを偵察観望し、もし異状なくんば、※[#「さんずい+足」、第4水準2−78−51]野侯《さくやこう》の故道に従って受降城《じゅこうじょう》に至って士を休めよとある。博徳と相談してのあの上書はいったいなんたることぞ、という烈《はげ》しい詰問《きつもん》のあったことは言うまでもない。寡兵《かへい》をもって敵地に徘徊《はいかい》することの危険を別としても、なお、指定されたこの数千里の行程は、騎馬を持たぬ軍隊にとってははなはだむずかしいものである。徒歩のみによる行軍の速度と、人力による車の牽引《けんいん》力と、冬へかけての胡地《こち》の気候とを考えれば、これは誰にも明らかであった。武帝はけっして庸王《ようおう》ではなかったが、同じく庸王ではなかった隋《ずい》の煬帝《ようだい》や始皇帝《しこうてい》などと共通した長所と短所とを有《も》っていた。愛寵《あいちょう》比なき李《り》夫人の兄たる弐師《じし》将軍にしてからが兵力不足のためいったん、大宛《だいえん》から引揚げようとして帝の逆鱗《げきりん》にふれ、玉門関《ぎょくもんかん》をとじられてしまった。その大宛征討も、たかだか善馬がほしいからとて思い立たれたものであった。帝が一度言出したら、どんな我儘《わがまま》でも絶対に通されねばならぬ。まして、李陵の場合は、もともと自《みずか》ら乞《こ》うた役割でさえある。(ただ季節と距離とに相当に無理な注文があるだけで)躊躇《ちゅうちょ》すべき理由はどこにもない。彼は、かくて、「騎兵を伴わぬ北征」に出たのであった。
浚稽山《しゅんけいざん》の山間には十日余|留《とど》まった。その間、日ごとに斥候《せっこう》を遠く派して敵状を探ったのはもちろん、附近の山川地形を剰《あま》すところなく図に写しとって都へ報告しなければならなかった。報告書は麾下《きか》の陳歩楽《ちんほらく》という者が身に帯びて、単身都へ馳《は》せるのである。選ばれた使者は、李陵《りりょう》に一揖《いちゆう》してから、十頭に足らぬ少数の馬の中の一
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