れに、山上に靡《なび》いていた旗印から見れば、紛れもなく単于《ぜんう》の親衛軍である。単于がいるものとすれば、八万や十万の後詰《ごづ》めの軍は当然繰出されるものと覚悟せねばならぬ。李陵は即刻この地を撤退して南へ移ることにした。それもここから東南二千里の受降城《じゅこうじょう》へという前日までの予定を変えて、半月前に辿《たど》って来たその同じ道を南へ取って一日も早くもとの居延塞《きょえんさい》(それとて千数百里離れているが)に入ろうとしたのである。
 南行三日めの午《ひる》、漢軍の後方はるか北の地平線に、雲のごとく黄塵《こうじん》の揚がるのが見られた。匈奴騎兵の追撃である。翌日はすでに八万の胡兵が騎馬の快速を利して、漢軍の前後左右を隙《すき》もなく取囲んでしまっていた。ただし、前日の失敗に懲《こ》りたとみえ、至近の距離にまでは近づいて来ない。南へ行進して行く漢軍を遠巻きにしながら、馬上から遠矢を射かけるのである。李陵が全軍を停《と》めて、戦闘の体形をとらせれば、敵は馬を駆って遠く退き、搏戦《はくせん》を避ける。ふたたび行軍をはじめれば、また近づいて来て矢を射かける。行進の速度が著しく減ずるのはもとより、死傷者も一日ずつ確実に殖《ふ》えていくのである。飢え疲れた旅人の後をつける曠野《こうや》の狼のように、匈奴の兵はこの戦法を続けつつ執念深く追って来る。少しずつ傷つけていった揚句《あげく》、いつかは最後の止《とど》めを刺そうとその機会を窺《うかが》っているのである。
 かつ戦い、かつ退きつつ南行することさらに数日、ある山谷の中で漢軍は一日の休養をとった。負傷者もすでにかなりの数に上っている。李陵《りりょう》は全員を点呼して、被害状況を調べたのち、傷の一か所にすぎぬ者には平生どおり兵器を執《と》って闘わしめ、両創を蒙《こうむ》る者にもなお兵車を助け推《お》さしめ、三創にしてはじめて輦《れん》に乗せて扶《たす》け運ぶことに決めた。輸送力の欠乏から屍体《したい》はすべて曠野《こうや》に遺棄するほかはなかったのである。この夜、陣中視察のとき、李陵はたまたまある輜重車《しちょうしゃ》中に男の服を纏《まと》うた女を発見した。全軍の車輛《しゃりょう》について一々調べたところ、同様にしてひそんでいた十数人の女が捜し出された。往年関東の群盗が一時に戮《りく》に遇《あ》ったとき、その妻子等が逐《お》われて西辺に遷《うつ》り住んだ。それら寡婦《かふ》のうち衣食に窮するままに、辺境守備兵の妻となり、あるいは彼らを華客《とくい》とする娼婦《しょうふ》となり果てた者が少なくない。兵車中に隠れてはるばる漠北《ばくほく》まで従い来たったのは、そういう連中である。李陵は軍吏に女らを斬《き》るべくカンタンに命じた。彼女らを伴い来たった士卒については一言のふれるところもない。澗間《たにま》の凹地《おうち》に引出された女どもの疳高《かんだか》い号泣《ごうきゅう》がしばらくつづいた後、突然それが夜の沈黙に呑《の》まれたようにフッと消えていくのを、軍幕の中の将士一同は粛然《しゅくぜん》たる思いで聞いた。
 翌朝、久しぶりで肉薄来襲した敵を迎えて漢の全軍は思いきり快戦した。敵の遺棄|屍体《したい》三千余。連日の執拗《しつよう》なゲリラ戦術に久しくいらだち屈していた士気が俄《にわ》かに奮《ふる》い立った形である。次の日からまた、もとの竜城《りゅうじょう》の道に循《したが》って、南方への退行が始まる。匈奴《きょうど》はまたしても、元の遠巻き戦術に還《かえ》った。五日め、漢軍は、平沙《へいさ》の中にときに見出《みいだ》される沼沢地《しょうたくち》の一つに踏入った。水は半ば凍り、泥濘《でいねい》も脛《はぎ》を没する深さで、行けども行けども果てしない枯葦原《かれあしはら》が続く。風上《かざかみ》に廻《まわ》った匈奴の一隊が火を放った。朔風《さくふう》は焔《ほのお》を煽《あお》り、真昼の空の下に白っぽく輝きを失った火は、すさまじい速さで漢軍に迫る。李陵はすぐに附近の葦《あし》に迎え火を放たしめて、かろうじてこれを防いだ。火は防いだが、沮洳地《そじょち》の車行の困難は言語に絶した。休息の地のないままに一夜|泥濘《でいねい》の中を歩き通したのち、翌朝ようやく丘陵地に辿《たど》りついたとたんに、先廻《さきまわ》りして待伏せていた敵の主力の襲撃に遭《あ》った。人馬入乱れての搏兵《はくへい》戦である。騎馬隊の烈《はげ》しい突撃を避けるため、李陵は車を棄《す》てて、山麓《さんろく》の疎林の中に戦闘の場所を移し入れた。林間からの猛射はすこぶる効を奏した。たまたま陣頭に姿を現わした単于《ぜんう》とその親衛隊とに向かって、一時に連弩《れんど》を発して乱射したとき、単于の白馬は前脚を高くあげて棒立ちとなり、青
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