袍《せいほう》をまとった胡主《こしゅ》はたちまち地上に投出された。親衛隊の二騎が馬から下りもせず、左右からさっと単于を掬《すく》い上げると、全隊がたちまちこれを中に囲んですばやく退いて行った。乱闘数刻ののちようやく執拗《しつよう》な敵を撃退しえたが、確かに今までにない難戦であった。遺された敵の屍体《したい》はまたしても数千を算したが、漢軍も千に近い戦死者を出したのである。
 この日捕えた胡虜《こりょ》の口から、敵軍の事情の一端を知ることができた。それによれば、単于《ぜんう》は漢兵の手強《てごわ》さに驚嘆し、己《おのれ》に二十倍する大軍をも怯《おそ》れず日に日に南下して我を誘うかに見えるのは、あるいはどこか近くに、伏兵があって、それを恃《たの》んでいるのではないかと疑っているらしい。前夜その疑いを単于が幹部の諸将に洩《も》らして事を計ったところ、結局、そういう疑いも確かにありうるが、ともかくも、単于自ら数万騎を率いて漢の寡勢《かぜい》を滅しえぬとあっては、我々の面目に係わるという主戦論が勝ちを制し、これより南四、五十里は山谷がつづくがその間力戦猛攻し、さて平地に出て一戦してもなお破りえないとなったそのときはじめて兵を北に還《かえ》そうということに決まったという。これを聞いて、校尉《こうい》韓延年《かんえんねん》以下漢軍の幕僚《ばくりょう》たちの頭に、あるいは助かるかもしれぬぞという希望のようなものが微《かす》かに湧《わ》いた。
 翌日からの胡軍《こぐん》の攻撃は猛烈を極めた。捕虜《ほりょ》の言の中にあった最後の猛攻というのを始めたのであろう。襲撃は一日に十数回繰返された。手厳《てきび》しい反撃を加えつつ漢軍は徐々に南に移って行く。三日|経《た》つと平地に出た。平地戦になると倍加される騎馬隊の威力にものを言わせ匈奴《きょうど》らは遮二無二《しゃにむに》漢軍を圧倒しようとかかったが、結局またも二千の屍体《したい》を遺《のこ》して退いた。捕虜の言が偽りでなければ、これで胡軍は追撃を打切るはずである。たかが一兵卒の言った言葉ゆえ、それほど信頼できるとは思わなかったが、それでも幕僚《ばくりょう》一同|些《いささ》かホッとしたことは争えなかった。
 その晩、漢の軍侯《ぐんこう》、管敢《かんかん》という者が陣を脱して匈奴の軍に亡《に》げ降《くだ》った。かつて長安《ちょうあん》都下の悪少年だった男だが、前夜|斥候《せっこう》上の手抜かりについて校尉《こうい》・成安侯《せいあんこう》韓延年《かんえんねん》のために衆人の前で面罵《めんば》され、笞《むち》打たれた。それを含んでこの挙に出たのである。先日|渓間《たにま》で斬《ざん》に遭った女どもの一人が彼の妻だったとも言う。管敢は匈奴の捕虜の自供した言葉を知っていた。それゆえ、胡陣《こじん》に亡《に》げて単于《ぜんう》の前に引出されるや、伏兵を懼《おそ》れて引上げる必要のないことを力説した。言う、漢軍には後援がない。矢もほとんど尽きようとしている。負傷者も続出して行軍は難渋《なんじゅう》を極めている。漢軍の中心をなすものは、李《り》将軍および成安侯韓延年の率いる各八百人だが、それぞれ黄と白との幟《し》をもって印としているゆえ、明日|胡騎《こき》の精鋭をしてそこに攻撃を集中せしめてこれを破ったなら、他は容易に潰滅《かいめつ》するであろう、云々《うんぬん》。単于《ぜんう》は大いに喜んで厚く敢を遇し、ただちに北方への引上げ命令を取消した。
 翌日、李陵《りりょう》韓延年《かんえんねん》速《すみや》かに降《くだ》れと疾呼《しっこ》しつつ、胡軍の最精鋭は、黄白の幟《し》を目ざして襲いかかった。その勢いに漢軍は、しだいに平地から西方の山地へと押されて行く。ついに本道から遙《はる》かに離れた山谷の間に追込まれてしまった。四方の山上から敵は矢を雨のごとくに注《そそ》いだ。それに応戦しようにも、今や矢が完全に尽きてしまった。遮虜※[#「章+おおざと」、第3水準1−92−79]《しゃりょしょう》を出るとき各人が百本ずつ携えた五十万本の矢がことごとく射尽くされたのである。矢ばかりではない。全軍の刀槍矛戟《とうそうぼうげき》の類も半ばは折れ欠けてしまった。文字どおり刀折れ矢尽きたのである。それでも、戟《ほこ》を失ったものは車輻《しゃふく》を斬《き》ってこれを持ち、軍吏《ぐんり》は尺刀《せきとう》を手にして防戦した。谷は奥へ進むに従っていよいよ狭《せま》くなる。胡卒《こそつ》は諸所の崖《がけ》の上から大石を投下しはじめた。矢よりもこのほうが確実に漢軍の死傷者を増加させた。死屍《しし》と※[#「壘」の「土」に代えて「糸」、第3水準1−90−24]石《るいせき》とでもはや前進も不可能になった。
 その夜、李陵は小袖短衣《しょうしゅ
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