49−12]王の死後は、凍《い》てついた大地から野鼠《のねずみ》を掘出して、飢えを凌《しの》がなければならない始末だと言う。彼の生死不明の噂《うわさ》は彼の養っていた畜群が剽盗《ひょうとう》どものために一匹残らずさらわれてしまったことの訛伝《かでん》らしい。陵は蘇武の母の死んだことだけは告げたが、妻が子を棄《す》てて他家へ行ったことはさすがに言えなかった。
この男は何を目あてに生きているのかと李陵は怪しんだ。いまだに漢に帰れる日を待ち望んでいるのだろうか。蘇武の口うらから察すれば、いまさらそんな期待は少しももっていないようである。それではなんのためにこうした惨憺《さんたん》たる日々をたえ忍んでいるのか? 単于《ぜんう》に降服を申出れば重く用いられることは請合《うけあ》いだが、それをする蘇武《そぶ》でないことは初めから分り切っている。陵の怪しむのは、なぜ早く自《みずか》ら生命を絶たないのかという意味であった。李陵《りりょう》自身が希望のない生活を自らの手で断ち切りえないのは、いつのまにかこの地に根を下《おろ》して了《しま》った数々の恩愛や義理のためであり、またいまさら死んでも格別漢のために義を立てることにもならないからである。蘇武の場合は違う。彼にはこの地での係累《けいるい》もない。漢朝に対する忠信という点から考えるなら、いつまでも節旄《せつぼう》を持して曠野《こうや》に飢えるのと、ただちに節旄を焼いてのち自ら首|刎《は》ねるのとの間に、別に差異はなさそうに思われる。はじめ捕えられたとき、いきなり自分の胸を刺した蘇武に、今となって急に死を恐れる心が萌《きざ》したとは考えられない。李陵は、若いころの蘇武の片意地を――滑稽《こっけい》なくらい強情な痩我慢《やせがまん》を思出した。単于《ぜんう》は栄華を餌《え》に極度の困窮《こんきゅう》の中から蘇武を釣《つ》ろうと試みる。餌につられるのはもとより、苦難に堪《た》ええずして自ら殺すこともまた、単于に(あるいはそれによって象徴される運命に)負けることになる。蘇武はそう考えているのではなかろうか。運命と意地の張合いをしているような蘇武の姿が、しかし、李陵には滑稽や笑止《しょうし》には見えなかった。想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を、(しかもこれから死に至るまでの長い間を)平然と笑殺していかせるものが、意地だとすれば、この意地こそは誠《まこと》に凄《すさま》じくも壮大なものと言わねばならぬ。昔の多少は大人《おとな》げなく見えた蘇武の痩我慢《やせがまん》が、かかる大我慢にまで成長しているのを見て李陵は驚嘆した。しかもこの男は自分の行ないが漢にまで知られることを予期していない。自分がふたたび漢に迎えられることはもとより、自分がかかる無人の地で困苦と戦いつつあることを漢はおろか匈奴《きょうど》の単于にさえ伝えてくれる人間の出て来ることをも期待していなかった。誰にもみとられずに独り死んでいくに違いないその最後の日に、自《みずか》ら顧みて最後まで運命を笑殺しえたことに満足して死んでいこうというのだ。誰一人|己《おの》が事蹟《じせき》を知ってくれなくともさしつかえないというのである。李陵《りりょう》は、かつて先代|単于《ぜんう》の首を狙《ねら》いながら、その目的を果たすとも、自分がそれをもって匈土《きょうど》の地を脱走しえなければ、せっかくの行為が空《むな》しく、漢にまで聞こえないであろうことを恐れて、ついに決行の機を見出しえなかった。人に知られざることを憂えぬ蘇武《そぶ》を前にして、彼はひそかに冷汗の出る思いであった。
最初の感動が過ぎ、二日三日とたつうちに、李陵の中にやはり一種のこだわりができてくるのをどうすることもできなかった。何を語るにつけても、己《おのれ》の過去と蘇武のそれとの対比がいちいちひっかかってくる。蘇武は義人《ぎじん》、自分は売国奴《ばいこくど》と、それほどハッキリ考えはしないけれども、森と野と水との沈黙によって多年の間鍛え上げられた蘇武の厳《きび》しさの前には己の行為に対する唯一の弁明であった今までのわが苦悩のごときは一溜《ひとたま》りもなく圧倒されるのを感じないわけにいかない。それに、気のせいか、日《ひ》にちが立つにつれ、蘇武の己に対する態度の中に、何か富者が貧者に対するときのような――己の優越を知ったうえで相手に寛大であろうとする者の態度を感じはじめた。どことハッキリはいえないが、どうかした拍子《ひょうし》にひょいとそういうものの感じられることがある。繿縷《ぼろ》をまとうた蘇武の目の中に、ときとして浮かぶかすかな憐愍《れんびん》の色を、豪奢《ごうしゃ》な貂裘《ちょうきゅう》をまとうた右校王《うこうおう》李陵《りりょう》はなによりも恐れた。
十日ばかり滞在したのち、李陵は
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