た。地を掘って坎《あな》をつくり※[#「火+慍のつくり」、第3水準1−87−59]火《うんか》を入れて、その上に傷者を寝かせその背中を蹈《ふ》んで血を出させたと漢書《かんじょ》には誌《しる》されている。この荒療治のおかげで、不幸にも蘇武は半日|昏絶《こんぜつ》したのちにまた息を吹返した。且※[#「革+是」、第3水準1−93−79]侯《そていこう》単于はすっかり彼に惚《ほ》れ込んだ。数旬ののちようやく蘇武の身体が恢復《かいふく》すると、例の近臣|衛律《えいりつ》をやってまた熱心に降をすすめさせた。衛律は蘇武が鉄火の罵詈《ばり》に遭《あ》い、すっかり恥をかいて手を引いた。その後蘇武が窖《あなぐら》の中に幽閉《ゆうへい》されたとき旃毛《せんもう》を雪に和して喰《くら》いもって飢えを凌《しの》いだ話や、ついに北海《ほっかい》(バイカル湖)のほとり人なき所に徙《うつ》されて牡羊《おひつじ》が乳を出さば帰るを許さんと言われた話は、持節《じせつ》十九年の彼の名とともに、あまりにも有名だから、ここには述べない。とにかく、李陵《りりょう》が悶々《もんもん》の余生を胡地《こち》に埋めようとようやく決心せざるを得なくなったころ、蘇武は、すでに久しく北海のほとりで独り羊を牧していたのである。
李陵《りりょう》にとって蘇武《そぶ》は二十年来の友であった。かつて時を同じゅうして侍中《じちゅう》を勤めていたこともある。片意地でさばけないところはあるにせよ、確かにまれに見る硬骨の士であることは疑いないと陵は思っていた。天漢元年に蘇武が北へ立ってからまもなく、武の老母が病死したときも、陵は陽陵《ようりょう》までその葬を送った。蘇武の妻が良人《おっと》のふたたび帰る見込みなしと知って、去って他家に嫁《か》した噂《うわさ》を聞いたのは、陵の北征出発直前のことであった。そのとき、陵は友のためにその妻の浮薄をいたく憤った。
しかし、はからずも自分が匈奴《きょうど》に降《くだ》るようになってからのちは、もはや蘇武に会いたいとは思わなかった。武が遙《はる》か北方に遷《うつ》されていて顔を合わせずに済むことをむしろ助かったと感じていた。ことに、己《おのれ》の家族が戮《りく》せられてふたたび漢に戻る気持を失ってからは、いっそうこの「漢節を持した牧羊者」との面接を避けたかった。
狐鹿姑《ころくこ》単于《ぜんう》が父の後《あと》を嗣《つ》いでから数年後、一時蘇武が生死不明との噂《うわさ》が伝わった。父単于がついに降服させることのできなかったこの不屈の漢使の存在を思出した狐鹿姑単于は、蘇武の安否を確かめるとともに、もし健在ならば今一度降服を勧告するよう、李陵に頼んだ。陵が武の友人であることを聞いていたのである。やむを得ず陵は北へ向かった。
姑且水《こじょすい》を北に溯《さかのぼ》り※[#「到」の「りっとう」に代えて「おおざと」、第3水準1−92−67]居水《しっきょすい》との合流点からさらに西北に森林地帯を突切る。まだ所々に雪の残っている川岸を進むこと数日、ようやく北海《ほっかい》の碧《あお》い水が森と野との向こうに見え出したころ、この地方の住民なる丁霊族《ていれいぞく》の案内人は李陵の一行を一軒の哀れな丸太|小舎《ごや》へと導いた。小舎の住人が珍しい人声に驚かされて、弓矢を手に表へ出て来た、頭から毛皮を被《かぶ》った鬚《ひげ》ぼうぼうの熊《くま》のような山男の顔の中に、李陵がかつての移中厩監《いちゅうきゅうかん》蘇子卿《そしけい》の俤《おもかげ》を見出してからも、先方がこの胡服《こふく》の大官を前《さき》の騎都尉《きとい》李少卿《りしょうけい》と認めるまでにはなおしばらくの時間が必要であった。蘇武《そぶ》のほうでは陵が匈奴《きょうど》に事《つか》えていることも全然聞いていなかったのである。
感動が、陵の内に在《あ》って今まで武との会見を避けさせていたもの[#「もの」に傍点]を一瞬圧倒し去った。二人とも初めほとんどものが言えなかった。
陵の供廻《ともまわ》りどもの穹廬《きゅうろ》がいくつか、あたりに組立てられ、無人の境が急に賑《にぎ》やかになった。用意してきた酒食がさっそく小舎《こや》に運び入れられ、夜は珍しい歓笑の声が森の鳥獣を驚かせた。滞在は数日に亙《わた》った。
己《おの》が胡服を纏《まと》うに至った事情を話すことは、さすがに辛《つら》かった。しかし、李陵は少しも弁解の調子を交えずに事実だけを語った。蘇武がさりげなく語るその数年間の生活はまったく惨憺《さんたん》たるものであったらしい。何年か以前に匈奴の於※[#「革+干」、49−11]王《おけんおう》が猟をするとてたまたまここを過ぎ蘇武に同情して、三年間つづけて衣服食糧等を給してくれたが、その於※[#「革+干」、
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