うし》のみ、なんぞまた漢と胡《こ》とあらんやとふとそんな気のすることもある。一しきり休むとまた馬に跨《また》がり、がむしゃらに駈《か》け出す。終日乗り疲れ黄雲《こううん》が落暉《らっき》に※[#「日+熏」、第3水準1−85−42]《くん》ずるころになってようやく彼は幕営《ばくえい》に戻る。疲労だけが彼のただ一つの救いなのである。
 司馬遷《しばせん》が陵《りょう》のために弁じて罪をえたことを伝える者があった。李陵は別にありがたいとも気の毒だとも思わなかった。司馬遷とは互いに顔は知っているし挨拶《あいさつ》をしたことはあっても、特に交を結んだというほどの間柄ではなかった。むしろ、厭《いや》に議論ばかりしてうるさいやつだくらいにしか感じていなかったのである。それに現在の李陵は、他人の不幸を実感するには、あまりに自分一個の苦しみと闘《たたか》うのに懸命であった。よけいな世話とまでは感じなかったにしても、特に済まないと感じることがなかったのは事実である。

 初め一概に野卑《やひ》滑稽《こっけい》としか映《うつ》らなかった胡地《こち》の風俗が、しかし、その地の実際の風土・気候等を背景として考えてみるとけっして野卑でも不合理でもないことが、しだいに李陵にのみこめてきた。厚い皮革製の胡服《こふく》でなければ朔北《さくほく》の冬は凌《しの》げないし、肉食でなければ胡地の寒冷に堪《た》えるだけの精力を貯《たくわ》えることができない。固定した家屋を築かないのも彼らの生活形態から来た必然で、頭から低級と貶《けな》し去るのは当たらない。漢人のふうをあくまで保《たも》とうとするなら、胡地の自然の中での生活は一日といえども続けられないのである。
 かつて先代の且※[#「革+是」、第3水準1−93−79]侯《そていこう》単于《ぜんう》の言った言葉を李陵《りりょう》は憶《おぼ》えている。漢の人間が二言めには、己《おの》が国を礼儀の国といい、匈奴《きょうど》の行ないをもって禽獣《きんじゅう》に近いと看做《みな》すことを難じて、単于は言った。漢人のいう礼儀とは何ぞ? 醜いことを表面だけ美しく飾り立てる虚飾の謂《いい》ではないか。利を好み人を嫉《ねた》むこと、漢人と胡人《こじん》といずれかはなはだしき? 色に耽《ふけ》り財を貪《むさぼ》ること、またいずれかはなはだしき? 表《うわ》べを剥《は》ぎ去れば畢竟《ひっきょう》なんらの違いはないはず。ただ漢人はこれをごまかし飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ、と。漢初以来の骨肉《こつにく》相《あい》喰《は》む内乱や功臣連の排斥《はいせき》擠陥《せいかん》の跡を例に引いてこう言われたとき、李陵はほとんど返す言葉に窮した。実際、武人《ぶじん》たる彼は今までにも、煩瑣《はんさ》な礼のための礼に対して疑問を感じたことが一再ならずあったからである。たしかに、胡俗《こぞく》の粗野《そや》な正直さのほうが、美名の影に隠れた漢人の陰険さより遙《はる》かに好ましい場合がしばしばあると思った。諸夏《しょか》の俗を正しきもの、胡俗《こぞく》を卑しきものと頭から決めてかかるのは、あまりにも漢人的な偏見ではないかと、しだいに李陵にはそんな気がしてくる。たとえば今まで人間には名のほかに字《あざな》がなければならぬものと、ゆえもなく信じ切っていたが、考えてみれば字が絶対に必要だという理由はどこにもないのであった。
 彼の妻はすこぶる大人《おとな》しい女だった。いまだに主人の前に出るとおずおずしてろく[#「ろく」に傍点]に口も利《き》けない。しかし、彼らの間にできた男の児は、少しも父親を恐れないで、ヨチヨチと李陵の膝《ひざ》に匍上《はいあ》がって来る。その児の顔に見入りながら、数年前|長安《ちょうあん》に残してきた――そして結局母や祖母とともに殺されてしまった――子供の俤《おもかげ》をふと思いうかべて李陵は我しらず憮然《ぶぜん》とするのであった。

 陵が匈奴《きょうど》に降《くだ》るよりも早く、ちょうどその一年前から、漢の中郎将《ちゅうろうしょう》蘇武《そぶ》が胡地《こち》に引留められていた。
 元来蘇武は平和の使節として捕虜《ほりょ》交換のために遣《つか》わされたのである。ところが、その副使某がたまたま匈奴の内紛《ないふん》に関係したために、使節団全員が囚《とら》えられることになってしまった。単于《ぜんう》は彼らを殺そうとはしないで、死をもって脅《おびや》かしてこれを降《くだ》らしめた。ただ蘇武一人は降服を肯《がえ》んじないばかりか、辱《はずか》しめを避けようと自《みずか》ら剣を取って己《おの》が胸を貫いた。昏倒《こんとう》した蘇武に対する胡※[#「醫」の「酉」に代えて「巫」、第4水準2−78−8]《こい》の手当てというのがすこぶる変わってい
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