旧友に別れて、悄然《しょうぜん》と南へ去った。食糧衣服の類は充分に森の丸木|小舎《ごや》に残してきた。
 李陵は単于《ぜんう》からの依嘱《いしょく》たる降服勧告についてはとうとう口を切らなかった。蘇武《そぶ》の答えは問うまでもなく明らかであるものを、何もいまさらそんな勧告によって蘇武をも自分をも辱《はずかし》めるには当たらないと思ったからである。
 南に帰ってからも、蘇武の存在は一日も彼の頭から去らなかった。離れて考えるとき、蘇武の姿はかえっていっそうきびしく彼の前に聳《そび》えているように思われる。
 李陵自身、匈奴《きょうど》への降服という己《おのれ》の行為をよしとしているわけではないが、自分の故国につくした跡と、それに対して故国の己に酬《むく》いたところとを考えるなら、いかに無情な批判者といえども、なお、その「やむを得なかった」ことを認めるだろうとは信じていた。ところが、ここに一人の男があって、いかに「やむを得ない」と思われる事情を前にしても、断じて、自らにそれは「やむを得ぬのだ」という考えかたを許そうとしないのである。
 飢餓も寒苦も孤独の苦しみも、祖国の冷淡も、己の苦節がついに何人《なんぴと》にも知られないだろうというほとんど確定的な事実も、この男にとって、平生の節義を改めなければならぬほどのやむを得ぬ事情ではないのだ。
 蘇武の存在は彼にとって、崇高な訓誡《くんかい》でもあり、いらだたしい悪夢でもあった。ときどき彼は人を遣《つか》わして蘇武の安否を問わせ、食品、牛羊、絨氈《じゅうせん》を贈った。蘇武をみたい気持と避けたい気持とが彼の中で常に闘っていた。

 数年後、今一度李陵は北海《ほっかい》のほとりの丸木|小舎《ごや》を訪《たず》ねた。そのとき途中で雲中《うんちゅう》の北方を戍《まも》る衛兵《えいへい》らに会い、彼らの口から、近ごろ漢の辺境では太守《たいしゅ》以下|吏民《りみん》が皆白服をつけていることを聞いた。人民がことごとく服を白くしているとあれば天子の喪《も》に相違ない。李陵は武帝《ぶてい》の崩《ほう》じたのを知った。北海の滸《ほとり》に到《いた》ってこのことを告げたとき、蘇武《そぶ》は南に向かって号哭《ごうこく》した。慟哭《どうこく》数日、ついに血を嘔《は》くに至った。その有様を見ながら、李陵はしだいに暗く沈んだ気持になっていった。彼はもちろん蘇武の慟哭の真摯《しんし》さを疑うものではない。その純粋な烈《はげ》しい悲嘆には心を動かされずにはいられない。だが、自分には今一滴の涙も泛《うか》んでこないのである。蘇武は、李陵のように一族を戮《りく》せられることこそなかったが、それでも彼の兄は天子の行列にさいしてちょっとした交通事故を起こしたために、また、彼の弟はある犯罪者を捕ええなかったことのために、ともに責を負うて自殺させられている。どう考えても漢の朝《ちょう》から厚遇されていたとは称しがたいのである。それを知ってのうえで、今目の前に蘇武の純粋な痛哭《つうこく》を見ているうちに、以前にはただ蘇武の強烈な意地とのみ見えたものの底に、実は、譬《たと》えようもなく清洌《せいれつ》な純粋な漢の国土への愛情(それは義とか節とかいう外から押しつけられたものではなく、抑《おさ》えようとして抑えられぬ、こんこんと常に湧出《わきで》る最も親身な自然な愛情)が湛《たた》えられていることを、李陵ははじめて発見した。
 李陵は己《おのれ》と友とを隔てる根本的なものにぶつかっていやでも己《おのれ》自身に対する暗い懐疑に追いやられざるをえないのである。

 蘇武《そぶ》の所から南へ帰って来ると、ちょうど、漢からの使者が到着したところであった。武帝《ぶてい》の死と昭帝《しょうてい》の即位とを報じてかたがた当分の友好関係を――常に一年とは続いたことのない友好関係だったが――結ぶための平和の使節である。その使いとしてやって来たのが、はからずも李陵《りりょう》の故人《とも》・隴西《ろうせい》の任立政《じんりっせい》ら三人であった。
 その年の二月武帝が崩じて、僅《わず》か八歳の太子|弗陵《ふつりょう》が位を嗣《つ》ぐや、遺詔《いじょう》によって侍中奉車都尉《じちゅうほうしゃとい》霍光《かくこう》が大司馬《だいしば》大将軍として政《まつりごと》を輔《たす》けることになった。霍光はもと、李陵と親しかったし、左将軍となった上官桀《じょうかんけつ》もまた陵の故人であった。この二人の間に陵を呼返そうとの相談ができ上がったのである。今度の使いにわざわざ陵の昔の友人が選ばれたのはそのためであった。
 単于《ぜんう》の前で使者の表向きの用が済むと、盛んな酒宴が張られる。いつもは衛律《えいりつ》がそうした場合の接待役を引受けるのだが、今度は李陵の友人が来た場合と
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