きものと思い込む必要があったのである。
 五《いつ》月ののち、司馬遷はふたたび筆を執《と》った。歓《よろこ》びも昂奮《こうふん》もない・ただ仕事の完成への意志だけに鞭打《むちう》たれて、傷ついた脚を引摺《ひきず》りながら目的地へ向かう旅人のように、とぼとぼと稿を継いでいく。もはや太史令の役は免ぜられていた。些《いささ》か後悔した武帝が、しばらく後に彼を中書令《ちゅうしょれい》に取立てたが、官職の黜陟《ちゅっちょく》のごときは、彼にとってもうなんの意味もない。以前の論客司馬遷は、一切口を開かずなった。笑うことも怒ることもない。しかし、けっして悄然《しょうぜん》たる姿ではなかった。むしろ、何か悪霊《あくりょう》にでも取り憑《つ》かれているようなすさまじさ[#「すさまじさ」に傍点]を、人々は緘黙《かんもく》せる彼の風貌《ふうぼう》の中に見て取った。夜眠る時間をも惜しんで彼は仕事をつづけた。一刻も早く仕事を完成し、そのうえで早く自殺の自由を得たいとあせっているもののように、家人らには思われた。
 凄惨《せいさん》な努力を一年ばかり続けたのち、ようやく、生きることの歓《よろこ》びを失いつくしたのちもなお表現することの歓びだけは生残りうるものだということを、彼は発見した。しかし、そのころになってもまだ、彼の完全な沈黙は破られなかったし、風貌《ふうぼう》の中のすさまじさも全然|和《やわ》らげられはしない。稿をつづけていくうちに、宦者《かんじゃ》とか閹奴《えんど》とかいう文字を書かなければならぬところに来ると、彼は覚えず呻《うめ》き声を発した。独り居室にいるときでも、夜、牀上《しょうじょう》に横になったときでも、ふとこの屈辱の思いが萌《きざ》してくると、たちまちカーッと、焼鏝《やきごて》をあてられるような熱い疼《うず》くものが全身を駈《か》けめぐる。彼は思わず飛上り、奇声を発し、呻きつつ四辺《あたり》を歩きまわり、さてしばらくしてから歯をくいしばって己《おのれ》を落ちつけようと努めるのである。

       三

 乱軍の中に気を失った李陵《りりょう》が獣脂《じゅうし》を灯《とも》し獣糞《じゅうふん》を焚《た》いた単于《ぜんう》の帳房《ちょうぼう》の中で目を覚ましたとき、咄嗟《とっさ》に彼は心を決めた。自《みずか》ら首|刎《は》ねて辱《はずか》しめを免れるか、それとも今一応は敵に従っておいてそのうちに機を見て脱走する――敗軍の責を償《つぐな》うに足る手柄を土産《みやげ》として――か、この二つのほかに途《みち》はないのだが、李陵は、後者を選ぶことに心を決めたのである。
 単于《ぜんう》は手ずから李陵の縄《なわ》を解いた。その後の待遇も鄭重《ていちょう》を極めた。且※[#「革+是」、第3水準1−93−79]侯《そていこう》単于とて先代の※[#「口+句」、第3水準1−14−90]犁湖《くりこ》単于の弟だが、骨骼《こっかく》の逞《たくま》しい巨眼《きょがん》赭髯《しゃぜん》の中年の偉丈夫《いじょうふ》である。数代の単于に従って漢《かん》と戦ってはきたが、まだ李陵ほどの手強《てごわ》い敵に遭《あ》ったことはないと正直に語り、陵の祖父|李広《りこう》の名を引合いに出して陵の善戦を讃《ほ》めた。虎《とら》を格殺《かくさつ》したり岩に矢を立てたりした飛将軍《ひしょうぐん》李広の驍名《ぎょうめい》は今もなお胡地《こち》にまで語り伝えられている。陵が厚遇を受けるのは、彼が強き者の子孫でありまた彼自身も強かったからである。食を頒《わ》けるときも強壮者が美味をとり老弱者に余り物を与えるのが匈奴《きょうど》のふうであった。ここでは、強き者が辱《はずか》しめられることはけっしてない。降将李陵は一つの穹盧《きゅうろ》と数十人の侍者《じしゃ》とを与えられ賓客《ひんきゃく》の礼をもって遇《ぐう》せられた。
 李陵にとって奇異な生活が始まった。家は絨帳《じゅうちょう》穹盧《きゅうろ》、食物は羶肉《せんにく》、飲物は酪漿《らくしょう》と獣乳と乳醋酒《にゅうさくしゅ》。着物は狼《おおかみ》や羊や熊《くま》の皮を綴《つづ》り合わせた旃裘《せんきゅう》。牧畜と狩猟と寇掠《こうりゃく》と、このほかに彼らの生活はない。一望際涯《いちぼうさいがい》のない高原にも、しかし、河や湖や山々による境界があって、単于《ぜんう》直轄地《ちょっかつち》のほかは左賢王《さけんおう》右賢王|左谷蠡王《さろくりおう》右谷蠡王以下の諸王侯の領地に分けられており、牧民の移住はおのおのその境界の中に限られているのである。城郭もなければ田畑もない国。村落はあっても、それが季節に従い水草を逐《お》って土地を変える。
 李陵には土地は与えられない。単于|麾下《きか》の諸将とともにいつも単于に従っていた。隙《すき》があった
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