られたりするのとは全然違った種類のものだ。士たる者の加えられるべき刑ではない。こればかりは、身体のこういう状態というものは、どういう角度から見ても、完全な悪だ。飾言《しょくげん》の余地はない。そうして、心の傷だけならば時とともに癒《い》えることもあろうが、己《おの》が身体のこの醜悪な現実は死に至るまでつづくのだ。動機がどうあろうと、このような結果を招くものは、結局「悪かった」といわなければならぬ。しかし、どこが悪かった? 己《おのれ》のどこが? どこも悪くなかった。己は正しいことしかしなかった。強《し》いていえば、ただ、「我あり」という事実だけが悪かったのである。
茫然《ぼうぜん》とした虚脱《きょだつ》の状態ですわっていたかと思うと、突然飛上り、傷ついた獣のごとくうめきながら暗く暖かい室の中を歩き廻《まわ》る。そうしたしぐさを無意識に繰返しつつ、彼の考えもまた、いつも同じ所をぐるぐる廻ってばかりいて帰結するところを知らないのである。
我を忘れ壁に頭を打ちつけて血を流したその数回を除けば、彼は自らを殺そうと試みなかった。死にたかった。死ねたらどんなによかろう。それよりも数等恐ろしい恥辱が追立てるのだから死をおそれる気持は全然なかった。なぜ死ねなかったのか? 獄舎の中に、自らを殺すべき道具のなかったことにもよろう。しかし、それ以外に何かが内から彼をとめる。はじめ、彼はそれがなんであるかに気づかなかった。ただ狂乱と憤懣《ふんまん》との中で、たえず発作《ほっさ》的に死への誘惑を感じたにもかかわらず、一方彼の気持を自殺のほうへ向けさせたがらないものがあるのを漠然《ばくぜん》と感じていた。何を忘れたのかはハッキリしないながら、とにかく何か忘れものをしたような気のすることがある。ちょうどそんなぐあいであった。
許されて自宅に帰り、そこで謹慎《きんしん》するようになってから、はじめて、彼は、自分がこの一《ひと》月狂乱にとり紛《まぎ》れて己《おの》が畢生《ひっせい》の事業たる修史《しゅうし》のことを忘れ果てていたこと、しかし、表面は忘れていたにもかかわらず、その仕事への無意識の関心が彼を自殺から阻《はば》む役目を隠々《いんいん》のうちにつとめていたことに気がついた。
十年前|臨終《りんじゅう》の床《とこ》で自分の手をとり泣いて遺命《いめい》した父の惻々《そくそく》たる言葉は、今なお耳底《じてい》にある。しかし、今|疾痛《しっつう》惨怛《さんたん》を極《きわ》めた彼の心の中に在《あ》ってなお修史の仕事を思い絶たしめないものは、その父の言葉ばかりではなかった。それは何よりも、その仕事そのものであった。仕事の魅力とか仕事への情熱とかいう怡《たの》しい[#「しい」に傍点]態《てい》のものではない。修史という使命の自覚には違いないとしてもさらに昂然《こうぜん》として自らを恃《じ》する自覚ではない。恐ろしく我《が》の強い男だったが、今度のことで、己《おのれ》のいかにとるに足らぬものだったかをしみじみと考えさせられた。理想の抱負のと威張《いば》ってみたところで、所詮《しょせん》己は牛にふみつぶされる道傍《みちばた》の虫けらのごときものにすぎなかったのだ。「我[#「我」に傍点]」はみじめに踏みつぶされたが、修史という仕事の意義は疑えなかった。このような浅ましい身と成り果て、自信も自恃《じじ》も失いつくしたのち、それでもなお世にながらえてこの仕事に従うということは、どう考えても怡《たの》しいわけはなかった。それはほとんど、いかにいとわしくとも最後までその関係を絶つことの許されない人間同士のような宿命的な因縁《いんねん》に近いものと、彼自身には感じられた。とにかくこの仕事のために自分は自らを殺すことができぬのだ(それも義務感からではなく、もっと肉体的な、この仕事との繋《つな》がりによってである)ということだけはハッキリしてきた。
当座の盲目的な獣の呻《うめ》き苦しみに代わって、より[#「より」に傍点]意識的な・人間[#「人間」に傍点]の苦しみが始まった。困ったことに、自殺できないことが明らかになるにつれ、自殺によってのほかに苦悩と恥辱とから逃れる途《みち》のないことがますます明らかになってきた。一個の丈夫《じょうふ》たる太史令《たいしれい》司馬遷《しばせん》は天漢《てんかん》三年の春に死んだ。そして、そののちに、彼の書残した史をつづける者は、知覚も意識もない一つの書写機械にすぎぬ、――自らそう思い込む以外に途《みち》はなかった。無理でも、彼はそう思おうとした。修史の仕事は必ず続けられねばならぬ。これは彼にとって絶対であった。修史の仕事のつづけられるためには、いかにたえがたくとも生きながらえねばならぬ。生きながらえるためには、どうしても、完全に身を亡《な》
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