ら単于の首でも、と李陵は狙《ねら》っていたが、容易に機会が来ない。たとい、単于を討果たしたとしても、その首を持って脱出することは、非常な機会に恵まれないかぎり、まず不可能であった。胡地《こち》にあって単于と刺違えたのでは、匈奴《きょうど》は己《おのれ》の不名誉を有耶無耶《うやむや》のうちに葬ってしまうこと必定《ひつじょう》ゆえ、おそらく漢に聞こえることはあるまい。李陵は辛抱強《しんぼうづよ》く、その不可能とも思われる機会の到来を待った。
単于《ぜんう》の幕下《ばっか》には、李陵《りりょう》のほかにも漢の降人《こうじん》が幾人かいた。その中の一人、衛律《えいりつ》という男は軍人ではなかったが、丁霊王《ていれいおう》の位を貰《もら》って最も重く単于に用いられている。その父は胡人《こじん》だが、故《ゆえ》あって衛律は漢の都で生まれ成長した。武帝に仕えていたのだが、先年|協律都尉《きょうりつとい》李延年《りえんねん》の事に坐《ざ》するのを懼《おそ》れて、亡《に》げて匈奴《きょうど》に帰《き》したのである。血が血だけに胡風《こふう》になじむことも速く、相当の才物でもあり、常に且※[#「革+是」、第3水準1−93−79]侯《そていこう》単于《ぜんう》の帷幄《いあく》に参じてすべての画策に与《あず》かっていた。李陵はこの衛律を始め、漢人《かんじん》の降《くだ》って匈奴の中にあるものと、ほとんど口をきかなかった。彼の頭の中にある計画について事をともにすべき人物がいないと思われたのである。そういえば、他の漢人同士の間でもまた、互いに妙に気まずいものを感じるらしく、相互に親しく交わることがないようであった。
一度単于は李陵を呼んで軍略上の示教を乞《こ》うたことがある。それは東胡《とうこ》に対しての戦いだったので、陵は快く己《おの》が意見を述べた。次に単于が同じような相談を持ちかけたとき、それは漢軍に対する策戦についてであった。李陵はハッキリと嫌《いや》な表情をしたまま口を開こうとしなかった。単于も強《し》いて返答を求めようとしなかった。それからだいぶ久しくたったころ、代・上郡を寇掠《こうりゃく》する軍隊の一将として南行することを求められた。このときは、漢に対する戦いには出られない旨を言ってキッパリ断わった。爾後《じご》、単于は陵にふたたびこうした要求をしなくなった。待遇は依然として変わらない。他に利用する目的はなく、ただ士を遇するために士を遇しているのだとしか思われない。とにかくこの単于は男[#「男」に傍点]だと李陵は感じた。
単于の長子・左賢王《さけんおう》が妙に李陵に好意を示しはじめた。好意というより尊敬といったほうが近い。二十歳を越したばかりの・粗野《そや》ではあるが勇気のある真面目《まじめ》な青年である。強き者への讃美《さんび》が、実に純粋で強烈なのだ。初め李陵のところへ来て騎射《きしゃ》を教えてくれという。騎射といっても騎のほうは陵に劣らぬほど巧《うま》い。ことに、裸馬《らば》を駆る技術に至っては遙《はる》かに陵を凌《しの》いでいるので、李陵はただ射《しゃ》だけを教えることにした。左賢王《さけんおう》は、熱心な弟子となった。陵の祖父|李広《りこう》の射における入神《にゅうしん》の技などを語るとき、蕃族《ばんぞく》の青年は眸《ひとみ》をかがやかせて熱心に聞入るのである。よく二人して狩猟に出かけた。ほんの僅《わず》かの供廻《ともまわ》りを連れただけで二人は縦横に曠野《こうや》を疾駆《しっく》しては狐《きつね》や狼《おおかみ》や羚羊《かもしか》や※[#「周+鳥」、第3水準1−94−62]《おおとり》や雉子《きじ》などを射た。あるときなど夕暮れ近くなって矢も尽きかけた二人が――二人の馬は供の者を遙《はる》かに駈抜《かけぬ》いていたので――一群の狼に囲まれたことがある。馬に鞭《むち》うち全速力で狼群の中を駈け抜けて逃れたが、そのとき、李陵の馬の尻《しり》に飛びかかった一匹を、後ろに駈けていた青年左賢王が彎刀《わんとう》をもって見事《みごと》に胴斬《どうぎ》りにした。あとで調べると二人の馬は狼どもに噛《か》み裂かれて血だらけになっていた。そういう一日ののち、夜、天幕《てんまく》の中で今日の獲物を羹《あつもの》の中にぶちこんでフウフウ吹きながら啜《すす》るとき、李陵は火影《ほかげ》に顔を火照《ほて》らせた若い蕃王《ばんおう》の息子に、ふと友情のようなものをさえ感じることがあった。
天漢三年の秋に匈奴《きょうど》がまたもや雁門《がんもん》を犯した。これに酬《むく》いるとて、翌四年、漢は弐師《じし》将軍|李広利《りこうり》に騎六万歩七万の大軍を授《さず》けて朔方《さくほう》を出でしめ、歩卒一万を率いた強弩都尉《きょうどとい》路博徳《ろはくとく》
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