だ。彼は会話への情熱をプッツリ失ったのだろうか? 異人種の顔が、その匂が、その声が、突然いとわしいものに感じられて来たのだろうか? それともミクロネシヤの古き神々が温帯人の侵入を憤って、不意に此の老人の前に立ち塞がり、彼の目を視れども見えぬものの如く変えて了ったのだろうか。いずれにせよ、我々は、怒鳴っても宥《なだ》めても揺すぶっても決して脱がせることの出来ぬ不思議な仮面の前に茫然とせざるを得ぬ。こうした一時的痴呆の状態は全然本人の自覚を伴わぬものか、それとも、実は極めて巧妙に意識的に張り廻らされた煙幕なのか、それさえまるで見当がつかないのである。
 これはほんの一例に過ぎぬ。島民の部落に長い期間を過ごした者は、誰しも之に似た経験を屡々《しばしば》持ったに違いない。南洋に四五年もいて、すっかり島民が判ったなどという人に会うと、私は妙な気がする。椰子の葉摺《はずれ》の音と環礁の外にうねる太平洋の濤《なみ》の響との間に十代も住みつかない限り、到底彼等の気持は分りそうもない気が私にはするからである。
 どうも下らない理窟めいたことばかりしゃべり立てたようだ。私は一体何を話すつもりだったんだろう
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