に荒れ狂う怒濤の如く、ありとあらゆる罵詈雑言《ばりぞうごん》が夫の上に降り注いだ。火花のように、雷光のように、毒のある花粉のように、嶮《けわ》しい悪意の微粒子が家中に散乱した。貞淑な妻を裏切った不信な夫は奸悪な海蛇だ。海鼠《なまこ》の腹から生れた怪物だ。腐木に湧く毒茸。正覚坊の排泄物。黴《かび》の中で一番下劣な奴。下痢をした猿。羽の抜けた禿翡翠《はげかわせみ》。他処からモゴルに来たあの女ときたら、淫乱な牝豚だ。母を知らない家無し女だ。歯に毒をもったヤウス魚。兇悪な大|蜥蜴《とかげ》。海の底の吸血魔。残忍なタマカイ魚。そして、自分は、その猛魚に足を喰切られた哀れな優しい牝蛸だ。…………
 余りの烈しさ騒々しさに、夫は耳が聾したように茫然としていた。一時は、自分がすっかり無感覚になったような気がした。対策を考える暇などは無いのである。怒鳴り疲れた妻が一寸《ちょっと》息を切って椰子水に咽喉を潤おす段になって、やっと、今迄盛んに空中に撒き散らされた罵詈が綿《カボック》の木の棘の様にチクチクと彼の皮膚を刺すのを感じた。
 習慣は我々の王者である。この様な目に会いながら、妻の絶対専制に慣れたギラ・
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