無い家に近附いた。妻に近附くのが、唯何となく怖かったのである。
 猫のように闇中を見通す未開人の眼で彼がそうっと家の中を窺った時、彼は其処《そこ》に一組の男女の姿を見付けた。男は誰か判らないが、女がエビルであることだけは間違いない。瞬間、ギラ・コシサンは、ほっと、助かった! という気がした。目前に見た事の意味よりも、いきなり妻に怒鳴りつけられる事から免れたことの方が彼にとって重大だったのである。次に彼は何か少し悲しい気がした。嫉妬でも憤怒でもない。大嫉妬家のエビルに向って嫉妬するなどとは到底考えられぬことだし、怒りなどという感情はいじけた此の男の中から疾《と》うに磨滅し去っていて今は少しの痕跡さえ見られない。彼は唯何かほんの少し寂しい気がしただけである。彼は又そっと足音を忍ばせて家から遠ざかった。
 何時かギラ・コシサンは男子組合《ヘルデベヘル》のア・バイの前に来ていた。中から微かに明りの洩れるのを見れば、誰かがいるに違いない。はいって見ると、ガランとした内に椰子殻の灯が一つともり、其の灯に背を向けて一人の女が寝ている。紛《まご》う方なきリメイだ。ギラ・コシサンは胸を躍らせて近寄った。
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