の下僕を独木舟から鱶《ふか》の泳ぐ水中に跳び込ませたこともある。哀れな下僕の慌てまどい畏《おそ》れる様が、彼にいたく満足を与える。
昼間の劇《はげ》しい労働も苛酷な待遇も最早彼に嘆声を洩らさせることはない。賢い諦めの言葉を自らに言って聞かせる必要もなくなった。夜の楽しさを思えば、昼間の辛労の如き、ものの数ではなかったからである。一日の辛い仕事に疲れ果てても、彼は世にも嬉しげな微笑を浮べつつ、栄燿栄華《えいようえいが》の夢を見るために、柱の折れかかった汚ない寝床へと急ぐのであった。そういえば、夢の中で摂《と》る美食の所為《せい》であろうか、彼は近頃めっきり肥《ふと》ってきた。顔色もすっかり良くなり、空咳も何時かしなくなった。見るからに生き生きと若返ったのである。
丁度哀れな醜い独身者の下僕が斯《こ》うした夢を見始めた頃から、一方、彼の主人たる富める大長老も亦《また》奇態な夢を見るようになった。夢の中で、貴き第一長老は惨めな貧しい下僕になるのである。漁から椰子蜜採りから椰子縄作りから麺麭《パン》の実取りや独木舟造りに至る迄、ありとあらゆる労働が彼に課せられる。こう仕事が多くては、無数
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