た古帽子をかぶって放浪者気取をする必要があるか? 何だって又、歯の浮くような・やにさがった[#「やにさがった」に傍点]調子で「人形は美しい玩具だが、中味は鋸屑《おがくず》だ」などという婦人論を弁じなければ気が済まぬのか? 二十歳のスティヴンスンは、気障のかたまり[#「かたまり」に傍点]、厭味《いやみ》な無頼漢《ならずもの》、エディンバラ上流人士の爪弾き者だった。厳しい宗教的雰囲気の中に育てられた白面病弱の坊ちゃんが、急に、自らの純潔を恥じ、半夜、父の邸《やしき》を抜け出して紅灯の巷《ちまた》をさまよい歩いた。ヴィヨンを気取り、カサノヴァを気取る此の軽薄児も、しかし、唯一筋の道を選んで、之に己の弱い身体と、短いであろう生命とを賭《か》ける以外に、救いのないことを、良く知っていた。緑酒と脂粉の席の間からも、其の道が、常に耿々《こうこう》と、ヤコブの砂漠で夢見た光の梯子《はしご》の様に高く星空迄届いているのを、彼は見た。
十
一八九二年十一月××日
郵船日とてベルとロイドとが昨日から街へ行って了ったあと、イオプは脚が痛くなり、ファアウマ(巨漢の妻は再びケロリとして夫の許に戻って来
前へ
次へ
全177ページ中87ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング