命の予覚に脅され通しではなかったのである。
 小説《ロマンス》とは circumstance の詩だと、彼は言った。事件《インシデント》よりも、それに依って生ずる幾つかの場面の効果を、彼は喜んだのである。ロマンス作家を以て任じていた彼は、(自ら意識すると、せぬとに拘《かか》わらず)自分の一生を以て、自己の作品中最大のロマンスたらしめようとしていた。(そして、実際、それは或る程度迄成功したかに見える。)従って其の主人公《ヒーロー》たる自己の住む雰囲気は、常に、彼の小説に於ける要求と同じく、詩をもったもの、ロマンス的効果に富んだものでなければならなかった。雰囲気描写の大家たる彼は、実生活に於て自分の行動する場面場面が、常に、彼の霊妙な描写の筆に値する程のものでなければ我慢がならなかったのである。傍人の眼に苦々しく映ったに違いない・彼の無用の気取(或いはダンディズム)の正体は、正しく此処にあった。何の為に酔狂にも驢馬《ろば》なんか連れて、南|仏蘭西《フランス》の山の中をうろつかねばならぬか? 何の為に、良家の息子が、よれよれ[#「よれよれ」に傍点]の襟飾《ネクタイ》をつけ、長い赤リボンのつい
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