い所に常に住んでいた。咳込んだ口を抑える手巾《ハンカチ》の中に紅いものを見出さないことは稀《まれ》だったのである。死に対する覚悟に就いてだけは、この未熟で気障《きざ》な青年も、大悟徹底した高僧と似通ったものを有《も》っていた。平生、彼は自分の墓碑銘とすべき詩句をポケットにしのばせていた。「星影繁き空の下、静かに我を眠らしめ。楽しく生きし我なれば、楽しく今は死に行かむ」云々《うんぬん》。彼は、自分の死よりも、友人の死の方を、寧《むし》ろ恐れた。自らの死に就いては、彼は之に馴れた。というよりも、一歩進んで、死と戯れ、死と賭《かけ》をするような気持を有《も》っていた。死の冷たい手が彼をとらえる前に、どれだけの美しい「空想と言葉との織物」を織成すことが出来るか? 之は大変|豪奢《ごうしゃ》な賭のように思われた。出発時間の迫った旅人の様な気持に追立てられて、彼はひたすらに書いた。そうして、実際、幾つかの美しい「空想と言葉との織物」を残した。「オララ」の如き、「スロオン・ジャネット」の如き、「マァスタア・オヴ・バラントレエ」の如き。「成程、其等の作品は美しく、魅力に富んではいるが、要するに、深味の
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